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「瞳をとじて」---瞳を閉じたから見えたものとは?

見ました

映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。
「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」——

HPより


この映画は、失踪したフリオが「瞳を閉じる」ことによって終わる。
しかし、私が気になったのは「瞳を閉じる」ことよりも、スクリーンのこちら側に役者が向ける「まなざし」の方であった。

「瞳」というのは、その人自体を表すこともあると思う。肉体、精神、現実、夢想。自分が目で見ていると思っていることも実は現実ではないかもしれないし、この世界には神にしか見えない世界があるのかもしれない。
しかし、大事な時、人は瞳を閉じて考える。大切なことを感じ取る。それしかできないのかもしれない。神経を尖らせて、集中させる。そのような場面の描写は美しく、そしてこちらに迫るものがあった。

もしも自分の父親が20年も失踪し、すでにこの世にいないことになっていたらどんな気持ちだろう。そして、20年ぶりに会うことのできた父親が自分のことを覚えていなかったら、どんな気持ちなのだろう。悲しみ、憎しみなどの感情が巻き起こるかもしれない。緊張もするだろう。それでも、フリオの娘は逃げなかった。そしてフリオの親友・ミゲルは、その目で現在のフリオに向き合い、優しい眼差しを向ける。眼差しこそが全てとも言える。言葉で伝わらなくても、ただそこにある現実に向き合うことができる。


前述したように、眼差し---目に宿る力---が印象的だったシーンはたくさんある。特にミゲルとフリオがタンゴの曲を歌うシーンは、それぞれの目にカメラの焦点が当たり、目の演技が特徴的だったと思う。記憶喪失で何も覚えてないフリオに対しての、ミゲルの真剣な目。淡い期待と、それを裏切られている現実。それを映し出していた。ただ、希望はあった。それは映画だった。

映画を見る映画、というメタさをどうしても考えてしまう。映画は暗闇の中で上映されねばならない。私が友達と映画を見ていても、友達が映画を見る眼差しを私は見ることができない。
画角の工夫もあった。役者の顔が交互に映され、時に長回しで風景が描写される。ゆっくりと進む時間。すぐに物語が展開するわけではない。実際だってそうだろう。静かな時間、一人でいる時間を経由して、何かが少しずつ紐解かれていくし、それでも何も変わらないかもしれない。

映画とはそうであるべきなのだ。ゆっくりと確実に進む時間の中で、たまたま私はこの映画を見た。この目で見た。が、本当に大切な時、たとえば私があなたを忘れてしまった時や、あなたが私を忘れてしまった時。
流れていた時間を回想するために、本当に大事なことに気づくために、私たちは瞳を閉じるだろう。そして、またゆっくりを瞳を開けて、暖かい眼差しで、でも真剣な眼差しであなたを見るだろう。暗闇に目が慣れてから、そっと大事なものを手に入れることができるだろう。そうであってほしいと思う。


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