他人のことを考える余裕がなぜあるのか

他人のことを考える余裕がなぜあるのか。
最近僕はこのことで頭を悩ませています。誰か助けてください。笑

きっかけは「シン・二ホンアンバサダー」になったこと。
簡単に言えば、「シン・二ホン」という本に書かれた考え方を、広めることによって、「もう一度日本を立ち上がらせよう」という活動です。

その中に「残すに値する日本を創ろう」とあります。
教育を見直していくことで、若者の戦闘力をあげよう。その環境づくりをするべきだ。と。

僕自身も非常に心が打たれたし、納得もしました。
だって、今の教育はあまりにも学生に厳しすぎるから。
ダメダメだらけの校則然り、素養が養えない定型的な勉強然り。
高校卒業時「あなたは何ができますか?」と問われ、明確な答えを言える高校生が何人いるのでしょうか。
さらには、大学を卒業しても多くの人が「何もできないまま」社会に出されることになります。
確かに「教育の改善」は大事です。

シン・二ホンアンバサダーの中でも、「どうやって教育していくのがいいか」という問いはよく上がります。
高校生から年配の方々が集まり、様々な意見が出て刺激的です。

でも、話をしているうちに思ったのです。
「ちょっと待て、僕たちは、少なくとも僕は、他人を教育できるような自分物か?」

僕だって読書家の端くれです。多少は教えられることもあるし、多様な考え方も持っています。
医療に関しては、ピカピカの新人ですが、一応国家資格を持ったプロです。
が、自分が教育するような人物かと問われれば、「うーん。」

一方で、こういう意見があるのも知ってはいます。
・教育する中で先生も学んでいる
・完璧な人間なんてこの世にはいない

だからこそ、今僕の頭は悩んでいます。
妥当な結論を出すことは簡単です。
「自分で自分を磨きながらも、その姿や考え方を後世に伝えていけばいい」
でも、多くの人がそうしてきているじゃないですか。
で、日本は変わりましたか?

僕が思うに問題はそこにないのでしょう。
ここまで読んでいただいて申し訳ありませんが、このnoteには結論はありません。
皆さんの考えを聞くというより、問いを投げかけたかっただけなのです。

「教育が大事と言われ、残したい未来を創ろうとするとき、僕たちは他人のことを考えている余裕がなぜあるか」と。

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