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追悼・筒美京平さん

筒美京平さんが亡くなった。

日本のポピュラー音楽の巨星でした。

たくさんの記事が書かれ、多くの人が追悼の言葉を連ねている。NHKのニュース記事には「昭和を代表する歌謡曲を作曲」とあるし、実際そのとおりなのだけれど、筒美京平さんがすごいのは平成以降、歌謡曲からJ-POPへと変わりゆく時代の中でも、自らを更新しながらヒット曲を生み出し続けてきたことだと思います。

たとえば1995年には小沢健二「強い気持ち、強い愛」を作曲。この曲については連載「平成ヒット曲史」で書きました。

https://www.bookbang.jp/heiseijpop/article/268

TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN」は2003年。21世紀に入っても現役であり続けて、アーティストにあわせて、ヒット曲を狙って作り続ける。しかも色褪せない。これは本当にとんでもないことだと思います。

2018年には『筒美京平自選作品集 50th Anniversaryアーカイヴス』が、コロムビア、ビクター、ユニバーサルの3社から3枚同時リリースされたばかり。

記事によると、リリースにあたっては「以前はヒットソングを出そうと思い多くのエネルギーを注いで来ましたが、今ではそれが愛おしく思うようになりました」とコメントしていた、とのこと。

筒美京平さんが、本名=渡辺栄吉として日本グラモフォン=ポリドール(現ユニバーサルミュージック)に就職したのが1963年。洋楽部のディレクターから青山学院大学時代の先輩で同じジャズバンドにいた作詞家の橋本淳の勧めで作曲家に転身したのが1966年。ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」が初のヒットとなったのが1967年。そこから50年以上と考えると、頭が下がるばかり。

(ちなみに、このあたりの”青山学院大学”コネクションについては、牧村憲一さん、藤井丈司さんとの共著『渋谷音楽図鑑』にて触れています)

見出しに使った写真は、その執筆中に入手したレア盤『青山学院創立100周年記念レコード』のブックレットより。

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メディアにはあまり登場しないイメージがあったんですが、JASRACのページに掲載されているインタビュー(2002年時点で小沢健二やピチカート・ファイヴとの仕事を振り返り、ドラゴンアッシュやラブサイケデリコについて語っている)も非常に興味深いです。

jasrac.or.jp/sakka/vol_2/tsutsumi_in.html

ちなみに僕が好きな曲をひとつあげるならば、Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスの「セクシー・バス・ストップ」。1976年、自分が生まれた年のフィリー・ソウル。



アメリカやイギリスの音楽の潮流をどう”翻訳”して日本で受け入れるものにするかという、日本のポピュラー音楽が何十年にもわたって取り組んできた流れそのものの象徴の人だとも言えると思います。

冥福をお祈りいたします。安らかに。

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