不器用な人間とか、親子関係とか

またしてもnote書いている場合じゃないけど書いておく。
書かずにいると「今書かなきゃいけない仕事の文章」より「今思っている個人的なことの言葉」で頭がいっぱいになって何も書けなくなるので書く。

「違国日記」を読んでいて、主人公の槙生には近しいものを感じる。

わたしは頭の中がいつも忙しくて
ものがすぐ見えなくなって
嘘が極端に苦手で ひとりでいるのが心地好くて
そういうふうになぜか生まれた

「違国日記」

……これとか。

ただ、槙生は不器用な人として描かれているけれど、ものすごく器用な人だと感じる。
学生時代からの友人が何人もいて、年上の女性に甘えたり、男性に頼ったりもできる。

「ちゃんとやれている人」で羨ましい。
だから作品の中では大人の象徴として描かれているのかな。


朝は両親が亡くなったことをしばらく受け止められず、槙生に「(嘘でもいいから)真実」を求めるけれど、槙生はいわゆる個人主義者でそれはしない。
すべての感情も考えもそれぞれ個人のもので、共有できるものではないし、するつもりもないと。

この考え自体に反論はない。
そうだと思う。

でも、子どもに対しては、ある程度の答えを提示した方がいい。
なぜなら、相手は子どもだから。
絶対的な答えじゃなくていい。
「これに対する答えとしてはAとBと、Cが妥当だと思うから、あとは自分で選んで」みたいな。
そのくらいの指針は示さないと、子どもは迷ってしまう。
迷って、そして選ばず投げ出してしまう。

指針を示さないことを、子どもは「親に雑に扱われた。愛されていない」と感じる。
乳幼児期は子の命を守るために何でも先回りしていた親の言動が、子どもの目には「親とはつねに答えを示してくれる存在。教えてくれる人」と映るから。

でも、そういう親子関係でいられるのはせいぜい10歳か11歳くらいまでで。
中学にもなれば「自分で考えるように促すこと」が親の役目になる。
答えを教えることは「甘やかし」「子離れできていない」と見なされる。

(朝の場合、15~16歳ではあるけれど、親が死ぬという衝撃的な経験をしているから、そりゃ「答え」が欲しいよなと思うし、答えを持っているはずの親がもう亡いから、そりゃつらいよなとも思う)

親の役目とはつまり、子を自立させて巣立たせることだから、子が自分で命の危険を回避できるようになれば、考え方や選択の仕方、情報の集め方、人との付き合い方なんかを教えて、それらを子が身につけて実行して自分の道を歩んで行くのが正しいんだろうと思う。

子どもは成長するに従い、自分の中に答えを見いだすようになるし、そうならなきゃいけない。

子育ては難しい。
責任が取れないことに親は責任を持っている。
子どもの人生がどうなるかはわからないし、本人がどうにかするしかないのに、親はその責任を背負っている。
子が幸せになってほしいと願うけれど「この道を行けばいいよ」と教えてはいけない。
なぜなら、親にとっての答えが子にとっても答えであるとは限らないから。
あくまで選択肢のひとつでしかなく。
そして、親が与える答えを鵜呑みにする子は自分の人生を歩めなくなってしまうから。
親子関係は歪みや矛盾をはらんでいて、そんななかで親はどうにか正解を見つけようとしている、いつも。
難しい。

私は子どもたちのことを考えると胃が痛くなる。
自分のことなら「やるしかない」と吹っ切れるし、つらくてもやるしかないならやるし、諦めるしかないなら諦めるけれど。
子どもは私じゃない。
そして、子どもは私より知恵がなく思考力もなく忍耐もなく情報も持っていない。
いろいろと下手だからうまくやれない。
そんな子どもに対して、もはや手取り足取りできない年齢になっているのに「うまく生きてほしい」なんて、無謀な願いでしかない。
そばにいて祈るくらいがせいぜい。
ろくでもない宗教だと思う。


親は「親という仮面」をかぶって、それらしく精一杯に振る舞っている。
子どもから見た親は、「親という体を取った人間」でしかない。
私だってそう。
子どもが幸せになるように、甘やかしたり叱ったりする。
叱るなんて、そんなもんやらなくていいならやりたくない。
でも、やらなきゃいけないからやってる。
親だから。

私は、子どもが親を一人の人間として理解する必要はないと思っている。
「親の心子知らず」とはその通りで、知らなくていい。
たとえ知っても「理解しましたよ」と言わなくていいし、寄り添うこともしなくていい。

なぜなら、私は親であなたは子どもだから。

子どもたちはいったん巣立ったなら、ひたすらに自分の人生を歩めばいい。
親を踏み台にして子は巣立っていくのだから、自分で答えを出せるようになったら、親はもう必要ない。
後ろを振り返らなくていい。


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