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泥臭い自分自身をモロ出しすること
先日、ある方に自分の企画を見ていただいた。
プロジェクトとして素材が決まっているとか、誰かの原案が存在するものではなく、ゼロから自分が考えたものだった。
私の勝手な妄想といってもいい。
有り余るほどの実績がある聡明なその方は、提案書をざっと見てひと言、「もっと作家性を出した方がいい」と仰った。
アナタが本当に作りたいものはコレじゃないですよね、と。
すべて見透かされていた。
ユーザーペルソナを設定して、その層に受け入れられ喜ばれるような要素をふんだんに盛り込んだ”幕の内弁当”のような企画。
理屈としてはわからないでもないけれど、そこに熱や情は感じられない。
人の心を惹きつけるものはない、と。
確かに。
その企画は、私の本質や好みとは真逆をいく内容だった。
既存作品や最近のトレンドを考慮して、きれいに整えた企画でしかなかった。
だから、企画を練っていてわからなくなる瞬間がたびたびあった。
この登場人物はこの場面で何を言うんだろう?
この人はどうしてこういう行動を取るんだろう?
私は作家でもなければ、漫画家でもない。
企業に必要とされるものを作るのが正解だと思っていた。
私は作家性などという高尚なものを求められる人間ではないのだと。
「ゼロイチで何かを作る時はもっと泥臭い、自分の本音や感情をさらけ出した方がいいですよ。そういうドロドロしたモノがにじみ出ていないと周りは興味すら持たない」
その方はそう言って、私はその企画をボツにした。
ボツになったこと自体は特に何も思わず。
どこかで覚悟していたかのような納得感があった。
やはり、私はここにたどり着くのだな、というか。
私が作家性を出すのなら、美しいものは全く出てこない。
醜さ、苦しさ、自嘲、底辺、限界、破壊。
でも、自分の中に渦巻く本質に嘘はなく。
そして、そういう泥臭い自分をモロ出しにした文章は、すでに書いていた。
10年以上も前から「これを書かずには死ねないだろうな」と思っていた。
この年齢になるまで生き延びるとは思わなかったけれど、それには理由がある。
子どもを育てること。
醜く泥臭い自分自身を記録すること。
それをやり遂げるのが、私にとって人生を全うすることになるのだろう。
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