目抜き通りへ

誰も知らない私が何なのか
当てにならない肩書きも苗字も
今日までどこをどう歩いて来たか
わかっちゃいない誰でもない

この曲は、TBSテレビで2017年1月期に放送されていたドラマ「カルテット」の「その後」という体で書かれたらしい。


私はこのドラマがとにかく大好きで、どれくらい好きかと言うとリアルタイムで観ていた当時1話分見逃したことが悔しすぎてブチギレたことがあるくらいだ(その後、Tverで見逃し配信を観て事なきを得ました。)

この不思議なドラマでは、4人の大人の共同生活を描かれ人生が描かれる。

前半は1人ずつにスポットライトが当たる。特に印象に残っているのが世吹すずめについてのこの話だ。

理不尽な過去、思い出したくない過去、嫌な過去。
そんなものに真正面から向き合わなくてもいい、逃げてもいい。
人生の全てを正当化しなくても、肯定しなくてもいい。
人生の全てを、わかりやすいストーリーにしなくてもいい。

そんなメッセージは、弱い人間にとっての救いそのものだった。

時が過ぎ、「目抜き通り」はカバーされる。
その時その歌詞が、全く違った意味に聞こえたのだ。

これは2020年末に「にじさんじ」というVTuberグループが開催した「NJU歌謡祭」の動画である。

その中で竜胆尊、ジョー・力一という2人のライバーがカバーしたのが「目抜き通り」であった。
結論から言うと、冒頭に書いた歌詞が似合うのは彼らを除いて他にいないと思った。

にじさんじライバーの大きな特徴の一つに「匿名性」がある。
デビューしたその日から、そのライバーの人生が始まる。
言い換えれば、それ以前の経歴はほぼ無いものとして活動している。
所謂「前世」と言うものだろう。
(当然、そんなことはリスナー側も重々承知の上であり、いわゆるみんなが共有している「暗黙の了解」というものであるが)

その身軽さは、ともすればアイデンティティが揺らぐ不安定さとも関連づくだろう。
でもそんな不安をものともせず歌う姿が、前述の「カルテット」と重なった。

ここからは私の話になる。

人のアイデンティティを形成する要素は内面だけでは無く、外部要因も大きいと思う。例えば服装や持ち物など。
その中でも「環境」は大きく、かといって広過ぎて意識しない部分だと思う。住む家や住む地域、周囲の人のことだ。

私にとってこの「環境」は不確実なものだ。
というのも、昔住んでいた場所が今いる場所から遠く離れていて、複数箇所に点在していて、しかも離れてから年数が経ち過ぎていて連絡をとっている人がいないから、自分がそこにいた確実な証拠を常日頃から確かめる術が無い。

つまり、自分の記憶の中の光景が全てなのだ。

この「環境」の不確実さ、不安定さは少なからず私が自分自身を確実なものとして認識できない性格に繋がっていると思う。要するに「自分が自分であること」に確信が持てないのだ。そして、それは「自信のなさ」にも結びつく。

もっと具体的に言うと、幼稚園生の時の自分と小学校低学年の時の自分と、高校の時の自分と大学の時の自分がいた環境は全部異なる。
人間は変わるものなので、性格があまりにも違う。本当に同じ人なのか?と我ながら思う。(多分みんなそうだろう)

でももし住んでいた場所が同じだったなら、見ている風景が同じだったなら、もっと「自分が自分であること」に自信を持てていたのかもしれない。と言うか、そのことに疑問すら持たなかっただろう。

そういう経験があるので、私は少しばかりと言うかだいぶ、「自分」というものの確実さに自信が持てない。

これには良い面も悪い面もあると思っている。
例えば、自分に自信が無いから他人に異常なほど関心があるし、人のことを尊重したいと思うし、その結果いろんな価値観を吸収できる。
しかし、これは行きすぎると主体性の無さに繋がるし、何よりとっても行き辛い。

そういうわけで私は、人間がアイデンティティをどのように形成していくのか、自分の人生をどのように捉えているのか、ということについて少しばかり人よりも興味があるのかなと分析している。

人生は、人間は、面白い。


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