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九月の虚無はコントの虚無

ピン芸人九月さんのエッセイ本「走る道化、浮かぶ日常」が発売されて話題となっています。

SNSでバズっているのを何度か見たことがある人も少なくないと思います。
事務所に所属せず完全フリー、ラジオやテレビのレギュラーがあるわけでもなく自身のYouTubeチャンネルがメディア活動の基盤、お笑いネタの賞レースの決勝戦や寄席などの舞台に定期的に出演しているわけでもない。
そんな状態からいきなり全国の書店に並んでしまうクリエイターとしての地肩の強さに驚きを隠せません。

お笑い芸人の棚のコーナーに何食わぬ顔をして陳列している九月さんの表情に、なんとも言えない不思議な可笑しみとインテリジェンスな魅力を感じてしまいました。



九月さんのコントが好きです。

どこか懐かしいようなあどけなさが残った声色と、幾重にも折り重なる言葉数の紡ぎが、コントと呼ぶには漫談的で、話芸と呼ぶには世界観が構築されていて、演劇と呼ぶには瞬間芸術みが高くて、密室芸と呼ぶには作品性が洗練されている
そんな 九月のコントとしか呼べないような、九月さんのコントが好きです。

再生リストに詰め込まれたYouTube上のコント達を眺めているだけでも、九月さんの尋常ならざる感じが確認できて良いです。

狂気と呼ぶには純粋な気もします。
変態とはそういったものの飼い慣らしなのだなとつくづく思う

そこも含めて愛おしく面白いです。


九月さんのコントを邦楽の歌詞のようだと評している感想や

エッセイのようだと記している感想や

純文学のようだと捉えている感想などを目にしたりします。

たしかにそうなのです。
いわゆるコント師の人間観察や状況描写、日常での機微、SF小説的な非現実性、などの要素が入っているには入っている、なんなら全部調合されているのだけど、なんかそれだけじゃない、根本的な「語りかけられている感」みたいなものが主成分としてかなりの割合を占めていると感じるのです。

ただ、それは“言語“に気を取られているからな気もしてて

九月さんはコントの中で演技という表現方法を駆使していながら、それと同じぐらい、いや、それ以上の肩幅で言語も駆使し登場人物の心情や世界を伝えてゆきます。
その言葉加減が、きちんとコントの旋律を守ったままギリギリ現実の延長線上で展開されうるコミュニケーションとして絶妙なのです。コントを壊さない説明台詞を大気中に常に放ってゆく。

だからこそ分かりやすいし、またあれだけの数を量産できるのだとも思います。

でも、それはまだ、言語に乗せて“意味“を運んでいる情報伝達という段階なのだとも、個人的には感じます。もちろん、それは社会的な営みとして素晴らしいことなのだと思うのですが

なんかもっと、根源的な発露をしようとしているようにも見える。

勝手な捉え方なのですが、九月さんは演技や言語に執着しながらも、それを超越しようとしてるんじゃないかな、という感触を抱きます。そこに無垢な天然性を覚えるのです。

同時に、なんか芽生える母性のような、極めて純度の高い共感のような、そういった類のものも発生させてもいて、自然と存在ごとその行為を肯定したくなる。めちゃくちゃヒモ体質という事なのかもしれません(芸人さんという才能がそういう愛玩力なのかもしれませんが)

演技を言語が越えてゆき 言語が意味を越えてゆく

九月という芸人人生を追体験しているかのような、瞬間が
コントを見ている今を丸ごと描いているみたいに包み込まれてゆくのです。

さて、今回は

そんな九月さんのコントにおける「言語」の面白さ

その正体を紐解いていってみたいと思います。

いや、正体も何も上記したような観点のそれ以上でもそれ以下でもなければ、僕は言語学者でもないので正直その実態が何であるかは感覚的にしか理解できません。さらに言えば、それすらも個人の感想の領域を出ません。

ただ、それについて考えてみること、それすらも「言語」です。

僕のこの行為は批評とも呼べるのかもしれませんが、本人としては「なぜ、九月さんのコントにこんなにも惹かれるのだろう?」という自己探求の最たるもので、もしかするとおこがましいですが、それを記して発露する事と、九月さんがコントを披露する事は、構造だけ見たら肉薄しているような気もするのです。もちろんそれは芸人さんという表現者の作品に対して付随してじゃないと存在できない文章なわけですが。しかし、僕のこの身体はこの感情を紡がずにはいられないのです。内面から表出してくる抽象概念、それをまた「言語」に縛って閉じ込めようとするフェティッシュは快楽以外に理由のない軟禁行為に他なりません。

もし、ご興味とお時間ございましたら お付き合いいただけますと幸いです。



九月と言語

改めて確認しますが、九月さんのコントには“言語”が駆使されています。

それは当然、数多といるコント師達のほとんどが言語を使用しネタを披露しているわけで、芸人さんが笑いを取るために言語を使う事自体はなにも珍しい事ではなく当たり前の事だと思います。
ただその上でもやはり、九月さんはその中でもなにか突出した言語へのこだわり、言葉というものに対するある種の偏執性があることを、コントを見たことのある人ならば舌触りとして覚えると思います。

なんと言うか、あえて粗雑に表してみるならば言語の使い捨て感を常に覚える。

それは言葉に対しての粒さで繊細で丁寧な扱いを感じさせることと両立をさせながら、同時にそこに付随する意味や概念を弄んでいるかのように支配し操作し気分によって自在に自由に好き勝手に流してゆくような感触。

語彙と声色と抑揚と緩急で、機微や哀愁や幻想や情念を、容易く目的地へいざなって我々観客は気付いたら笑わされている

そんな濃厚で淡白な蜜月的印象があります。

言語の性質

そもそも言語とは何か?

人間が音声や文字を用いて思想・感情・意志等々を伝達するために用いる記号体系。およびそれを用いる行為(広辞苑)。
音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・規則。および、そうした記号の体系(大辞泉)
Wikipedia「言語」より

上記されている定義が一般的な説明であるのなら、個人的にそこに付け加えたい要素があります。

言語には「置き換え」という機能がある

という事です。

“伝達“と記されている部分がそれに近い領域を指しているのだと思うのですが、それによって運ばれるものが意志、思想、感情などの情報であるわけなので、それらには実態がありません。もっと言えばそれらがちゃんと伝達されているのかすら本当のところではわかりません。意志、思想、感情などの情報それ自体が言語によって置き換えられている。仮定とも言える。今ここに書かれている文字も、それを口頭で読み上げてみた時に生じる音声も、一言一句全て意味の置き換え。仮定された記号や空気振動。宇宙人にとってみたら意味の無い細かい絵、喉の鳴らしでしかありません。

「2」という文字は2文字じゃない。
これ1文字で「2」という意味に置き換えているのです。


あくまで個人的解釈でしかありませんが、この理屈で話を進めてみますと

九月というピン芸人は、常にそういった意味の置き換えを目まぐるしく行い続けているコント師なのではないか?

そんな憶測が生まれてきました。

九月の「仮定性」

“コント”と呼ばれるそれがまず寸劇であるのでそこには演技による意味の置き換えが生じていると思うのですが、登場人物に言語性を色濃く宿し、状況説明や心情説明、対話としての反復、俯瞰的な展開台詞などを詰め込むことによってどこか哲学的な風味が漂っている気がするのです。なんというかコントの解像度にしては覚える共感や違和がきめ細かすぎるという感じ。

これはむしろ哲学的なものの理解、なんらかの事象に対しての仮定的な認識という「“言語“的な意味の置き換えを、“コント“に施している」という逆説的な捉え方も出来るのでは、と感じてしまうぐらいです。

なんらかの概念→言語理解(意味の置き換え)→言語の俯瞰化(九月のコント)→なんらかの概念

というような、コントの中できめ細かく喋ってゆく事で置き換えられた意味そのものを、さらに別の何かに仮定していて結果、「まだ言語化されていないもの」に到達しているような不思議な感覚を覚えるのです。

すっごい感覚的な例えでイメージを説明してみると、
フワフワしたものをカクカクしたものに変換させることが「概念の言語理解」であるのなら、
九月さんはそのカクカクしたものの積み重ねによってそれを立体化させて、なおかつ“やや曲線”を部分的に描いてゆく(「言語の俯瞰化」)、
そしてそれによって出来上がった構造物を受け手が把握してゆく過程で、その方法論でもっと細かく共感や違和が積み重なって多重的なカクカクがもはや若干フワフワに形状が近付いてしまう(「言語の概念理解」)

みたいな抽象移動がある感じなのです。

他芸人の「仮定性」との比較

ちょっと話が複雑になってしまっているので、もう少し身近な他の芸人さんと並べてみることでその特徴を掴んで行ってみましょう。

例えば、比較対象として言語に重きを置いていそうなイメージのピン芸人コント師の代表的存在としてバカリズムさんが上げられると思います。

バカリズムさんもその類まれなる発想力、脚本力を存分に活かしコントの中で言語の駆使をすることによって意味の置き換えをし続ける笑いを誘っているタイプなのだと感じます。

ただ、バカリズムさんの場合はどちらかと言えば、意味の想起段階、つまりは置き換えられた言語それ自体を解体し大喜利の解答としてその解体された意味を再定義してゆく、というような作業工程が若干見えます。さらに言えば、その解体部分はまず「語感」的な領域を核の部分としてその周辺から置き換えていっているような感じがします。
そしてその連続により全体像を構成しさらにその構造自体もズラしたりひっくり返したりする事で物語として形作ってゆくような手捌き。

なんと言うか、九月さんほどの意志、思想、感情などの伝達をあまり感じない

言語による意味の置き換えを行なってないわけではないですが、それよりもっと手前の語感や雰囲気やニュアンスの領域で遊んでいるような気がします。


また、その点で正反対とも呼べる存在として劇団ひとりさんとも比較してみても面白いかもしれません。

ひとりさんは言語的かと言われるとやはり演技力の方が際立っていると感じますが、その変幻自在な憑依芸と病的なまでに洗練された人物描写は、意志、思想、感情などの伝達を物凄く感じます。

しかしそれはどこか過剰なデフォルメによって成り立たせているヒューマンドラマという認識も拭えません。もちろんお笑い芸人が行うコントなのだから笑わせるための誇張的な演技演出が成されているのは当然ではあるのですが、ひとりさんのそれは何というか「物真似」の延長線上に位置していてそれを日常空間で繰り広げられうるリアリティに留める意識がありながら披露されている仮定性だという皮膚感覚があります。
台詞量も多くネタによっては独白的な1人語りも行うので、言語によって支えられている芸風であるのは間違いないのだとも思いますが、それによって着地している領域は最初から素の劇団ひとりそのものを面白がってもらおうとしている運動のために利用されているものだと感じます。

こちらは逆に、意味の置き換えの絶対数が九月さんのそれより少ないと感じます。

笑いに置ける意味比重の言語が占める割合が少ない分、その他の要素である表情や口調、動きや迫力、また根本的な笑いに対する倫理観とそれを背負う覚悟みたいなもののトータル的なバランス込みで出来上がっている面白さなのだと思います。


上記の比較によって朧げではありますが、なんとなく九月さんが主としている面白さの輪郭みたいなものがぼんやり見えてきたと思います。

バカリズムさんほど語感的でない言語
劇団ひとりさんほど演技的でない言語

このちょうど間ぐらいの領域で言語を駆使して意味を置き換え続けている

なんと言うか、
“コントの中で喋ってる“感じで、“喋っているというコントを演じている“感じ

自分という存在をコントの中の登場人物に仮定しながら、
その中で「こういうコントだと仮定してみてる」と喋っているようなメビウスの輪

これとちょうど逆の割合で成立しているタイプとして鳥居みゆきさんが上げられると思います。
彼女もまた言語の羅列によって意味の置き換えを目まぐるしく繰り返しながらコント内での規定的な面白さを構築してゆきます。

鳥居さんの場合は普段からある程度、情緒不安定なキャラ造形を施す事で「あの鳥居みゆきがコントをしている」という外側からの仮定が引き起こり、それによって漫談的な状態を作りながらコントとして組み立てられている立脚を示すことが出来ています。

コントの中で漫談化している九月さんと似てるけど真逆の構造です。

九月の言語のおもしろさ

さて、ここまでで九月さんのコントにおける「言語」の面白さを考えてみることで、なんとなくではありますが、仮定性という意味の置き換えをし続けている芸人さんなのではないか、という事がぼんやりと感じ取れてきました。

ただ、そこで思うのは
その意味の置き換えという特徴はやはり「コント」という様式と組み合わさる事で相乗効果を生み、それによって連れていかれる世界観込みでの抽象領域であるという感触は否めません。単純に言えばそれは、文学を題材にした演劇と何が違うのか?という疑問が湧いてしまいます。

もちろんその成分は存分に含まれているのだとは思うのですが、そこを意識するとむしろそれが中核の部分ではないような気もしてきます。なんというか下手したらその手法を選んでいることすら仮定的と言いますか、コント的と言いますか、踏まえた上でのブランディングという塩梅なのではないかと感じる。一番下地の前提となる足場にはもっと様子の違う何かが冷静に淡々とほくそ笑みながら狂気を振りかざしているような、そんな空気が漂っています。

なんでそれで馬鹿馬鹿しさを感じるのか?

という、お笑いとして成立する仕組みが知りたくなってきました。

言語による意味の置き換えだけだといささか説明不足。
この長話にもう少しお付き合い下さいませ。


九月とコント

では、それを掴んでゆくために九月さんのネタにおける言語という点だけではなく、もっとコントという表現形態そのもの、さらには九月という活動の全体像から眺めてみて体型的に理解してゆこうと思います。

九月さんと言えば、コントを披露するための活動形態それ自体に特殊性があります。

常軌を逸したネタ数、ライヴ数、公演時間数、
九月さんはとにかくそれらの数を積み上げています。

基本的に芸人さんが量としてその数を示すものって、テレビの出演本数やYouTube登録者数、少し時代を遡れば営業でどれだけ地方を回ったかや、もしくは全国ツアー的なものの観客動員数、とかだと思います。

しかし、九月さんはそれらよりもプライベーティブな単独公演という形、しかも通常舞台とはされないような割と狭い限られた場所で少人数の観客を前にコントを披露している状態です。僕はお笑い芸人の行う単独ライヴの開催数に100を超えたものを九月さんのフライヤーでしか見た事がありません。

本当にどうかしていると思う連打で素晴らしくイカれてます。

そしてこの蓄積が面白いのは、それによってある種の裏街道感が発生しているところだと思います。

ライヴの性質

あくまでイメージですが、知名度を獲得してゆく前の段階の若手芸人が単独ライヴを軸にカリスマ的なブランディングを作り出し、その限定性を保持した領域での膨らんだ評価によってじわじわと波及を生みながら有名になることで大衆性を獲得してゆく、という流れってあると思います。

九月さんももれなくそういう経路を辿っていると思うのですが、それが行われるペースの短さ、観客の少数精鋭化、コントという作品性の旋律を守りながらも上記したような言語の俯瞰によって量産できてしまえるシステム、などにより、意識的なのか偶発的なのか単独公演という範囲内でカリスマ性と大衆性を同時に獲得しているような循環的な自浄作用が発生していると感じます。

なんと言うか、密室芸で旅芸人をしている

というような相反する要素の不思議な両立を成している感じなのです。

もしかしたら
「ひきこもり」的な精神構造にも感じるかもしれません。

カフカの断食芸人よろしく
どこか内向的な気質にも感じ、いわゆる王道的な芸人像からは外れる事を自ら選んでいるようにも見えます。

ただ、だからこそそこには外界と閉ざされた価値観での表現空間の構築を可能にしているのだとも思います。

先にも既に出ましたが、キーワードは「限定性」だと思います。


九月の「限定性」

コント師の定型とされるような単独ライヴによるカリスマ性の積み上げは、ハイペースだとしても3ヶ月に1回だったり、また舞台という設計が組まれた劇場という場所である程度の客席数を確保しながら行われるのだと思いますが、九月さんはその両項目が逆転していて、もっと短期間の2週間に1回だったり、バーやシェアハウスなどで簡易的なライヴ空間を施してネタを披露しています。

ここまでの徹底した大量生産主義には、もはや刹那感すら感じられ、「何百本とあるコントの中から今日は何が繰り出されるのか?」「前見たことあるネタだけど今回は微妙に変えてきた」「この新ネタは初期の頃のあのネタの派生系だ」などなどそういった楽しみ方で鑑賞している方も少なくないのだろうなと感じます。

その時その場でしか見れない

そういった価値高騰は、年に1回集大成的に単独ライヴを行うタイプの芸人さんの希少性とは訳が違います。その場で見ている人数が少なければ少ないほど、反復が繰り返されて日常と化してしまっていればいるほど、その瞬間に発される一言はその瞬間にその場でしか共有できないものになります。

いわば、それが面白さにも繋がっているのでは、と

言語が意味の置き換えを行う事によって概念共有を成し、コミュニケーションの定型化を可能にさせているのならば、その定型化されたコミュニケーションという名の演技という行為を、解体させる事で置き換えられた意味が外れ、その場面でだけにおいて共有を可能にさせる純粋な概念領域に戻ってゆく、

「仮定性」からの「限定性」によって面白さが育まれている

そんな運動体系を覚えます。

つまり、それはすなわち
限りなく「音楽」に近付いている状態です。


序盤で述べた言語が意味の置き換えによって意志、思想、感情を運んでいるわけですが、それは実はその言語を理解しているもの同士でしか機能しません。そこには既に限定性は生じています。日本語は日本という場所を起点に展開され、だからこそ強靭な意味の磁場が生まれ、意志、思想、感情をより情報密度高く運んでくれます。日本人的な“粋”“侘び寂び”“もったいない”などの美徳や感性は言語によって共有されているからこそ根付いている概念です。言語規定によるその国だけの限定的概念。

ただ、それらは言語化によってのみ広まった感覚なのでしょうか?
言葉は仮定されたのちに、それが発話を中心に個人間それぞれのその場その場で音楽的理解として流行る事で流通するのではないかと感じています。

九月さんは仮定によって新しい概念を言語で提示し、限定によってそれを解体させながら共有する(コント内の台詞の抑揚や緩急を駆使する)事で音楽を生むので、受け手もその場その瞬間での身体的反応を余儀なくされているところがあるのではという気がします(それが“お笑い”というグルーヴの本質だとは思いますが。それを内容と環境設定によって原始的成立を作れている)。ちょっと飛躍した説明をしてみると「「新しい概念」が生まれる事自体が面白い(という概念)」を勢いでわからせてる、という感じ。だから面白いんじゃないかな、と。


他芸人の「限定性」との比較

言語の音楽化を芸として追求しているタイプも珍しい存在なわけではありません。

分かりやすいところで言えば、古舘伊知郎のトーキングブルースや、中田敦彦のYouTube大学などがそれに当たると思います。過剰に矢継ぎ早にしゃべる事によりグルーヴを生み聴衆を熱狂とカオスへと包み込んでゆく。その中に哲学や文学を入れ込む事で重層的な概念体験をもたらす事に成功している事例だと感じています。

また上記した2人ほどの速度やテキスト性は感じないものの、重厚さや即興性の方に重きを置いているようなタイプとして上岡龍太郎さんも似たような追求を行なっていると思います。

そこら辺と比較してゆくと、九月さんは上記のタイプのようなフォームをしていながらもいわゆる「話芸」を行なっているわけではないので、コントの中でやや言葉数多めで繊細な心理的機微を伝えてゆくような演技をしながら あるきっかけでボルテージが上がってゆきどこかの段階で完全に音楽的発露へのギアが入る、という感じの使い分けをしているんじゃないかなと思います。

これはコント師と呼ばれている芸人さんの中だと、かもめんたるのう大さんが近いんじゃないかなと感じています。

う大さんはグロテスクやエロティシズムみたいなものの中に面白さを見出すような探求をしながらも、それが直接的ではなく言語を経由して抽象性に達っさせて同時にその発露が聴覚的な心地良さに着地してゆく傾向があると感じます。
さらにその面白味の抽出に対しては、体重の掛け方が基本的に“気持ち悪さ”に偏ってゆくために俯瞰化を強く持ち込むというよりは、挙動や声色にほんのり不審さを塗りながら感触表現のボキャブラリを豊富にしているという感じ。
そしてそこに槙尾さんというツッコミが加わる事でその発露はある種の分かりやすさを獲得し、より裾野が広がったという肌触りがあります。

九月さんはその役割分担を1人でやった上で、そういった直接的な拒絶本能というよりもっと人間関係や自意識内で起こるあるあるを軸に言語説明をしているのだと思います。

その地点で言語の音楽化を行なっているコント師って、かなり珍しいのではないでしょうか?


九月のコントのおもしろさ

そんな言語と音楽の関係をぼんやり考えていたら、ある曲を思い出しました。

ムーンライダーズの「9月の海はクラゲの海」という曲です。

歌詞の中で
「君のことなにも知らないよ 君のことすべて感じてる」というフレーズがあって、それが割とメインの言葉として繰り返されているのですが、

個人的には2番の

僕のことなにも話さずに
僕のこと全部伝えたい

という箇所が印象に残っています。

言語が
意味の置き換えによって、仮定性でコミュニケーションを可能にし
その時その場でしか、という限定性によって心的発露を成している事実の先には

言語の無意味化

が待っているのでは、と感じました。

言葉を重ねれば重ねる程、元の意味から遠のいてゆく
始めから言葉など要らないのではないだろうか?

いや、しかし冒頭でも述べましたが、その理解に至るまでの過程で我々は言語を駆使し、今なお現在も言語によってこの文章は形を成しているのです。

九月さんのコントを見ていると、そんな当たり前の事に気付かされます。


九月と無意味

言語の仮定性、音楽の限定性、そして意味の無意味性

これらは全て繋がっているし、全てバラバラで独立もしている

あらゆる情報、感覚、世界は全て存在もしているし、全て頭の中での妄想でしかありません。

言語というコミュニケーションツールを使って少しでもお互いを理解し合おうと歩み寄りながらも、その言語という縛りによって我々はすれ違い、食い違い、勘違いを繰り返してしまいます。言語によって絡まったその糸をほどく指は言語とは違うコミュニケーションなのかもしれません。ただ、言語以外で絡まった糸をほどいてくれるのは、もしかしたら言語なのかもしれません。

コミュニケーション形態は常に変容し、認識しあっていたと思っていた他者や世界も常に変化をし、言語はもちろん他ならぬ自分自身の内面も外見も自我も目まぐるしく置き換わり続け決して同じ場所には留まりません。

変わらないものは何ひとつないし、
その実感すら変わってしまうのかもしれません

九月というピン芸人のコントを見ていると、その事を なんか感覚的に理解出来るのです。

繊細で丁寧な言葉遣い、機微や情緒を染み込ませた演技、積み重ねと解体で繰り広げられる音楽、その営み自体を俯瞰している事自体の当事者意識、それらを全部を把握しようと追いかけて言語化を試みようとしては陥る自己矛盾と快楽に 溺れてしまう
そんな我々の人生という名の架空性を、九月さんのひとりコントの中に観客 視聴者は見ているのではないでしょうか


以上が、僕の考える
九月さんのコントにおける「言語」の面白さです。

話がまとまっているようで、まとまっておらず、それこそ上手く言語化出来ていないですが…なんとなくニュアンスだけでも伝わったのなら幸いです。



最後に、九月さんが今井直人さんと組んでいたコンビのネタを置いて終わりにしたいと思います。

九月さんが繰り返し発するツッコミが耳に残ります。

「虚無やん」

この愛おしい 虚無 を
言語にする事で 少しでも長く噛み続けていたいです 。




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