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街裏ぴんくの漫談に合うお酒

街裏ぴんくさんの漫談が好きです。

嘘漫談。架空漫談。ファンタジー漫談。捏造すべらない話。本当の事を言わない兵藤大樹。第二の鶴瓶、タモリ。いろんな言い表され方をしていますが、それらがもうどうでも良くなるくらい、この嘘か本当かわからなくなる感覚が愛おしいです。


常識とは真実とは本当とは何でしょうか?

我々が普段営んでいる社会生活は、例えそれが他者との関わり合いが少なくとも学習という脳機能の習慣により情報が常識として内側からこびり付いて剥がれなくなります。街裏さんは丁寧かつ鮮やかな手捌きと話術でそれを取り除きそしてそのまま何処か遠くへ連れて行ってくれるのです。実際はその常識は剥がれる事なくその嘘とともにもしかしたら脳の記憶としては不要な情報のこびり付きが増えてしまっているだけかもしれません。でもいいじゃありませんか。この美しい嘘で一瞬でもその常識は溶けて時間を忘れさせてくれたのだから。


事務所の先輩であるエレ片のラジオに出演したり、AbemaTVの番組「チャンスの時間」に出演したり、少しずつメディアでも取り上げられて話題になってゆく回数とその断層が上がってきていると感じます。どういう状態が芸人さんにとって売れるという事なのかその定義も含めて曖昧ですが街裏ぴんくという芸人は確実に一歩ずつその階段を上がって行っているように見えます。


ここで今一度、個人的な解釈ではありますが、街裏ぴんくの嘘漫談について考えてみたいと思います。

それは芸人さんによるのですが売れる以前と以後とでは芸風が僅かでも変化がある場合があります。というか客層が変わるのでそれは変わって当然だと思います。もっと言えば街裏さんはR-1の敗者復活で「ウソ」Tシャツを着てみたりと既に演出に工夫を施していたりします。それ自体は別に寂しい事では無いのですがただ今のうちにしか観れない芸のポイントはあると感じているのです。

例えばそれはタモリさんの天皇モノマネ芸であったり、爆笑問題の原発漫才だったり、バナナマンの特別支援学級の生徒との修学旅行のコントだったり、おぎやはぎの「〇〇ではない」というコントだったり、三四郎の「リア充に劇薬ぶっ掛けたい」って叫ぶ漫才だったり、永野さんのマラソン終わりで襲われるネタだったり、時代のモラルや空気がゆっくりと変わっていく中で自然淘汰されてゆく密室芸というものが確かにあるのだと。それは動画サイトのアーカイブやレンタルビデオ屋等をくまなく探せばデータとして残っていたり、懐かしのネタという触れ込みで根強いファンに向けて復刻版的に披露される事もあるでしょう。しかしながら今この時に観る事でしか確認できない味わいや感触はまさに今この時に観る事でしか確認できないのです。

そしてそれはどこをどう観ればいいのかという事に如実に関わってきます。なので今一度街裏ぴんくの嘘漫談について考えてみたいのです。野暮や無粋なのは百も承知なのですが、正直それを考えずにはいられない。街裏ぴんくの嘘漫談に取り憑かれた狂った人間の端くれとしてどうかこの言語化をお見逃しいただきたい。共に盃を酌み交わしていただける方はもしよかったらお読み進ませ下さいませ。


街裏ぴんくの嘘漫談のおもしろさ

そもそも漫談とはどういう芸なのでしょう?

漫談とは?【活弁士性】

漫談(まんだん)とは、初代大辻司郎が命名したとされる、大正ごろに創設された演芸である。元来は音声付き映画(トーキー)が主流となったため失業した無声映画(活動写真)の活動弁士が、巧みな話術を生かして寄席の高座等に出演したのを発端とする。

基本的には漫談家と呼ばれる演者が立ちながらトークを行うもので、世間話から始まり、世相批判等を行うものもあれば、単なるばかばかしい内容で終始するものなどがある。話の本筋があるのもあれば、短い話の連発などもありバリエーションは多い。ネタが受けない状態(その場の空気)をもってネタにする「すべり芸」もある。 Wikipedia「漫談」より引用

元々無声映画に対しての生演奏や背景解説の説明文などの補足的な要素を、話芸として行っていたものから発生しそれが独立してジャンル化したような成り立ちだそうです。

そう考えると今で言うフリップネタのような仕組みが先行しているのかもしれません。視覚効果を促すメインのものが前提としてあった上でそのオプション的な部分が膨らんだというイメージです。

街裏ぴんくの嘘漫談と聞いて思い浮かぶ代表ネタはこちらであると個人的には思っています。

「ホイップクリーム」のネタです。
このネタはテレビでも観た事があります。割と初見でも伝わりやすい分かりやすい大きな嘘がメインとして中心に展開されていくのでよく披露されている印象があります。非常に鮮明にイメージが浮かんでくるようで、これは漫談の本来の形である活弁士のやっている事とかなり近い舌触りのネタではないでしょうか。観賞後に本当にそれが存在し物語として進んでいったという擬似体験を味わえるのです。

街裏さんの嘘漫談はこの映像と補足説明を分離させず極めてギリギリまで近づけていく事でその両方の原理を一人の人間が奇跡的なバランスで体現してしまっているという言語とイメージ共有のひとつの到達点に居ると思います。

漫談とは?【落語家性】

また考え方の別アプローチとして街裏ぴんくさんのネタを落語的な小噺と捉える事も出来ると思います。

落語(らくご)は、江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり、「落としばなし」略して「はなし」ともいう。「はなし」は「話」または「噺」とも表記する。

落語はもともと「落とし噺」といい、落ちのある滑稽なものを指した。

元禄期、京都では露の五郎兵衛が四条河原や北野などの大道(だいどう)で活躍した。これを「辻噺」といい、これを行った人々を「噺家」といい、落語家の始まりとされる。五郎兵衛が机のような台に座って滑稽な話をし、ござに座った聴衆から銭貨を得るというものであった。五郎兵衛は、後水尾天皇の皇女の御前で演じたこともあった。 Wikipedia「落語」より引用

こちらは披露されるべき話の方がまずあってそれを演じ手が膨らませていく事で芸能として成立していったというような形でしょうか。つまり活弁士との違いは「演じる」という要素が根幹にあります。

粗忽長屋とかは街裏ぴんくさんの漫談の設定として出てきてもおかしくないような内容です。

そうです。嘘漫談には演じるという要素も大分含まれています。漫談でありながら漫談を演じているというややこしい理解がそこにはあります。漫談という演目の落語であるかのように。

その事をメタ的に表しているコントのようなネタがあります。「二人の女」-漫談とは-というネタです。この芝居の中で漫談を披露する街裏さんが組み込まれている状態は、普段の街裏ぴんくの嘘漫談という芸に注がれるある種の正しい視線を客観的に表現しています。的確であり自覚的。確信犯的でもあります。本来この二人の女性のリアクションが正しいんだと自ら自己言及してしまっているかのような。そしてそれを舞台上で観せる事で笑いと共に成立させていくという面白さと自我の絶妙な関係。

初期の街裏さんの嘘漫談の原型的な「傘」というネタもそのメタ視点を獲得させるかのような「漫談のようなコント」的な演出が施されています。街裏ぴんくという芸人は語り部でありながら同時に演じ手でもあるわけです。そしてそれを漫談として理解し笑ってしまった段階で視聴者や観客である我々もまたその「コントのような漫談」が成立している世界の住人になってしまうのです。YouTubeのコメント欄に秀逸な書き込みを見つけました。「笑っている客込みでおもしろい」 まさしくです。

嘘のおもしろさとは?

街裏ぴんくの嘘漫談の構造的なものが少しだけなんとなく把握出来てきたのかもしれません。この「おかしな世界のおかしな住人である街裏ぴんくというおかしな漫談家がおかしなネタをおかしなお客の前で披露してウケているというおかしな状態」そのものを面白がるという感じでしょうか。言語化を試みるとどうしても長ったらしくなってしまって申し訳ないです。それを感覚的にでも体得しネタをいくつか観ていくとそこにさらに段階的なものが存在している事に気付きます。

それは「街裏ぴんく本人のおかしさのレベル」のようなポイントです。ここが個人的に押さえておきたい部分です。街裏さんはそれを漫談というていを取るため視点が本人のツッコミを中心としたすべらない話の形式に成っています。

ただそれは全部嘘なのでその語っている本人の視点であるツッコミそのものがツッコミとして機能していない瞬間があるのです。おかしな出来事が起きている世界を「ボケ」とした場合、その世界に対してツッコミを入れている街裏ぴんくは常識人であり観客の代弁者であるのですが、それも嘘なのでその世界がボケてないのに「ツッコミ」になっているというグラデーションがあるのです。

その強烈な違和感の奥の奥底には極めて抽象化された共感のようなものが存在しています。街裏ぴんくの嘘漫談を観ていると何故かあるあるネタを観ているような気分になる事が多々あるのです。全部ないないネタなのに反動でその僅かな二項胴体を細い糸口から手繰り寄せてしまうコミュニケーションの本能のようなものが働いてしまっているのでしょうか。逆を言えばこれが我々が普段抱いている常識や事実や本当という概念なのかもしれません。「街裏ぴんくは「ツッコミ」をしているからそれがこの世界では正しいのだろう」と脳が誤作動を起こしてしまう。その積み重ねの先にあるものは社会通念や、さらに言えば愛や、悲しみなどの感情と名付けているものかもしれません。


街裏ぴんく本人のおかしさのレベル

「街裏ぴんく本人のおかしさのレベル」の話に移っていきたいと思います。
ざっくりとですがそれを捉えて自己解釈の中に落とし込んでみようと。
そのレベルは3段階あると思っています。

まずは「本人は正常で世界がおかしい」というレベルです。

①本人は正常で世界がおかしい

これは比較的分かりやすく世界と本人の関係性が設定されていると思います。世界がボケで街裏さんがツッコミです。体験談として語られるので実際自分がその体験に対してツッコむ事で漫談として進めていくためいわゆる普通のすべらない話としても受け手は消費しやすくなっています。この関係性にする事で嘘であると気付きやすくもありそれこそ映画と活弁士のような関係性です。

またこのレベルはボケである世界が一方的に展開するという形式上、テレビを観ている状態や有名人の話など既存の常識や実在する人物などがよく題材にされています。

個人的には「少年」という漫談のシンプルなボケがほぼ一個しか無い上での構成が好きです。映像が浮かぶしシティボーイズのコントとしても成立しそうなネタだと思います。



次に「本人も世界もおかしい」というレベルです。

②本人も世界もおかしい

ここら辺から徐々にそのツッコミの側の感情にも共感出来なくなってきます。世界の方もボケるしツッコむし街裏さんの方もボケるしツッコまれるような両者混沌としたゾーンに入っていきます。何が常識で何が非常識なのかが段々とわからなくなってくる。そのカオスをさも当たり前の事のように淡々と話を進めていきお笑いに置けるシュールやナンセンスという言葉すらも蝕んでいき笑いと共に焼け野原にしてしまう。そういった観念破壊を施されてしまいます。

そしてこの手法でよく用いられていて目立つのが性や犯罪をネタにする直接的な表現です。世界と自分の関係の中でそれを外側からも内側からも衝動として乖離させていくジャンルがそれらである理由はむしろ万人が納得してしまうある意味での常識が逆に打ち出されてしまっています。

またこの領域では同時に文学性のようなものも高まっていってて、街裏さんのお笑いに対する思想的なものやロジック、人生観的なものが紛れ込んでいるのではないかという作品がいくつかあります。そういう意味ではどちらもおかしくある関係というのは誰も狂っていないという状態でもあるという表れであるのかもしれません。そう感じさせてくれる漫談の中で「お守り」が好きです。



さて最後です。「本人がおかしくて世界が正常」というレベルです。

③本人がおかしくて世界が正常

ここの領域が一番狂ってておかしいと思います。落語家が演目によって業の肯定を体現している構造とかなり近いとも感じます。この到達にいたった時が街裏ぴんくの一番美味しいところと言いますか、真正面からの「何言っているかわからん」が繰り出されている瞬間だしそれを享受して心の中でツッコミを入れる事でお笑いとして成立させている我々の脳みその使い方そのものがその空間ごとイカれている証拠になっています。

さらにこの領域は本人のみおかしいという世界の存在自体が嘘であるという何重にも包まれた構造とその嘘をお笑いのネタとして披露して成立させている事そのものの俯瞰的なメタ視点が限界にまで数値を上げているため、自身と世界の関係がかなり危ういバランスで成り立っています。その言っている事の意味わからなさのせいでほぼ漫談のモノマネのような出鱈目な言葉のなぞりに突入しています。つまり歌ネタのゾーンに片足を突っ込んでいます。

これはもうほとんどドラッグと言っていいでしょう。中毒者が続出しています。

REMIXを作り出してしまう人の気持ちもわかります。作らずにはいられないですよね。ちなみに街裏ぴんくさんが大阪時代に歌っていたチャーハンの歌は絶品です。

これらをこれ以上突き詰めていくと言語感覚も崩壊しタモリさんがやっていたソバヤのネタのような言語と歌のモノマネになっていくと思います。そしてそれは衝動とその発露つまりは世界と自分の関係性に回帰しても行きます。街裏さんは歌声やリズム感も優れているためむしろここから逆に遡るように今の芸風に辿り着いているのかもしれません。



嘘と街裏ぴんく

さて、いかがだったでしょうか?
街裏ぴんくさんの嘘漫談について考えてみる事でその面白さと我々が普段無意識に縛られている常識という概念の出所やコミュニケーションとしての言語というものの解体の先にあるもの等なんとなくですが感じ取れたのではないでしょうか?

まぁ考えてはみたものの結局この個人的な捉え方自体もどこまで的を射ているのかもよくわからないですし、むしろこの刺激されているであろう感覚というものそのものが疑わしくも信じ難いような感覚にこれまた包まれていきそれこそ何が嘘で何が本当だと捉えて書かれている文章なのかがわからなくなってきたと読んでて思ってきました。

最後にタイトル回収ではないですが、題名通り街裏ぴんくさんの漫談に合うお酒を紹介して終わりにしたいと思います。

カリラというアイル島のウイスキーがあります。

ボウモアやラフロイグなど世界に冠たる蒸溜所があるアイラ島の中ではカリラ蒸溜所の生産量は最大級といわれています。しかしブレンデッドウイスキー用のキーモルトを中心に提供していたため長い間知る人ぞ知る蒸留所という存在。街裏ぴんくさんの立ち位置と重なります。

力強いスモーキーな風味と同時に混ざるフルーティな舌触り。癖のあるフレーバーと口に含んだ時の洋梨のようなベタつかない甘味、そしてその後に来る黒胡椒のような辛味がピリっと残る。それがカリラの味わいです。

一見するとクドそうな風体と語り口から感じるキャラクターの強さがしっかりと裏打ちされた話術と演技の繊細かつ圧倒的な技術によりいつのまにか引き込まれている世界観と混ざり合い、そしてそれが全部嘘というある種の肩透かしとだからこそ設定がどこまでも飛躍もしてゆくという複雑怪奇なバランスで成り立っているのに難しさがなく何故かすんなりと受け入れてしまえるので意外と初心者にもオススメ出来る優しさがある。なおかつよく聞くと当人の本音もほのかに混ざっていたりしてそれがどこか愛着と嫌味を何とも言えない割合で差し込んでくる。耳に残り癖になる。痺れるような麻痺した感覚が癖になる。それが街裏ぴんくの味わいです。


この紹介が嘘か本当かはぜひ一度味わってみてからお確かめ下さい。

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