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ダブルブッキング川元文太はまだ箱の中にいる

人見知り芸人の極地

誰も傷付けない笑いの別次元

生き様をエンタメにする事の本当の意味

これらの条件を全て満たすダブルブッキングというお笑いコンビのボケ担当川元文太という男を皆さんご存知でしょうか?

芸歴20年以上、ホリプロコム所属、ネタは主にコント、シュールなボケかつブラックな内容が持ち味。大喜利センスに優れ、様々な大会で結果を残す。毒舌。

こうして並べてみると、一見するにそのプロフィールは非常にオーソドックスなお笑い芸人像を思い浮かべがちですが、川元さんはそれら全てこちらの想定範囲を上回ってきます。

まず数多くの借金芸人がその事をネタにし笑いを取りますが川元さんの場合は200万円で自己破産をしています。また既婚で子持ちなのですが川元さんは暴露されるという形でなく自ら不倫していたなどとあまり悪びれもせずメディアで発言したりします。さらにトークの中で嫌いな芸人を言うように水を向けられた時に同世代の芸人仲間や異業種のあまり関わり合いがない俳優の名前をパフォーマンス的に出すのではなく、普通に大御所の事を名指しで批判したりします。あとTwitterをやっているのですが一言ネタっぽい言い方で皮肉めいた政治的な発言もいっぱいします。

どうでしょう?
いわゆるクズキャラと呼ばれるような芸人さんは多数いて、もはやメディアにも当たり前のように出ているのでその炎上を誘発させる言動や非常識さ、ある種の性格的な欠落は演出されたネタであると理解して我々は享受しているわけですが、川元さんのこれらの発言や行為はその線引きを超える事こそに芸があると言わんばかりの堂々とした業の肯定であり、同時に川元さんの年齢とその時代との空気に乖離が起きている事も理由の一つであるとは言え「これはメディアでネタとして扱いづらいだろうなぁ…」というのが一般視聴者である我々ですら感じてしまう、そのある側面でコンプライアンスが常識化している現状の不可思議さも感じてしまう事になります。


もちろんそれらの川元さんのエピソードや振る舞いも芸人さんの「ネタ」であるわけで本人も自覚して一挙手一投足を選んでいるわけだし、実際のところはどこまでが「ネタ」なのか観ている我々には確認しようが無いのは大前提なのですが、ではなぜそこにコンプライアンスの線引きを勝手に感じてしまう受け手の感覚領域が存在しているのでしょうか?

例えば極端な事を言えば川元さんは犯罪を犯していたりするわけでは無いのに我々はこれらのネタに「メディアで扱いづらいだろうなぁ…」と勝手に感じてしまっていてそれによってそういう空気がどんどん作り上げられてゆき実際にメディアで扱われづらくなってゆく…それにはなんだか息苦しさも覚えます。(ちなみに誤解を招きたく無いので言っておきたいのですがダブルブッキングはそういうネタばかりするコンビではありません。ちゃんと地上波対応の放送コードを守った面白いコントをネタ番組では披露しています。そこを踏まえた上でという事です。)


今回は先に言ってしまうとこの川元さんをサンプルに


「芸人とコンプライアンスの関係領域」


について考えていきたいと思います。


なぜ川元さんを軸に考えていくのかと言うと、川元さんは周囲の芸人さんからの評価と一般的な知名度のバランスがちょうど境目の絶妙な場所にかなり長い間佇んでいると個人的に感じるからです。

バナナマンや、いとうせいこうさんや、伊集院光さんにその高い大喜利力で一目置かれ、さまぁ~ずや松本人志さんの番組などで実力派と紹介されその面白さを発揮しています。正直何度もそのムーブは起こしているのですがそれがブレイクというか視聴者に認知されるところまでは届いていないように感じます。お笑い好きには認識されているのだと思いますがそれがある段階までしか波及していかない傾向にあるのです。


認知度というものは世代や地域も問うものであると思うのでハッキリとは言えませんが感覚として川元さんの知名度における立ち位置のギリギリさはこの芸風と時代の流れによるものが大いに関係している気がします。それはお笑い業界やテレビやネットなどのメディア業界の内情がかなり複雑に含まれているのだと感じるのですが、ここではあくまで視聴者として僕個人が観てきた範囲と認識のみで憶測も含めて考えていきたいと思います。なのでこの文章自体も捉え方のひとつのサンプルに過ぎません。

その事をご理解いただいた上でお読みいただけると幸いです。では


箱男としての川元

まず川元さんを語る上で外せないのは電波少年の「箱男」ではないでしょうか。

箱男という企画

電波少年は1992年〜2003年まで日本テレビ系列で放送されたバラエティ番組です。「アポなしロケ」「ヒッチハイクの旅」「懸賞生活」など無名の若手お笑いタレントによる数々の奇抜な体当たり企画で人気を博し全盛期には視聴率30.4%を記録しました。過激な企画内容自体を成立させる事が出来るのかというドキュメンタリー性そのもので視聴者の期待を引っ張るという演出方法を多数施しテレビという映像媒体のある面での真理を突いた番組作りは賛否と共に人々の記憶に残っていると思います。


その中で行われた「箱男」という企画に川元さんは選ばれます。120cm×120cm×120cmの鉄製の箱に入り、鹿児島の佐多岬から東京までの約1500キロメートルを通りすがりの人に声をかけ善意でのみ押してもらうという内容で、ゴールするまではフタは溶接され外部とのコミュニケーションは箱にあるデジタル式のメッセージボードでしかできない(ただし簡易トイレ付き)という過酷なものでした。今だと水曜日のダウンタウンという番組で安田大サーカスのクロちゃんさんのドッキリ企画が賛否を生んでいますがそれが霞んで見えてしまう程のレベルの拉致監禁を当時川元さんは企画とはいえ行使されていました。

実際様々な問題は起きていて、狭い道路で自動車が箱を避けるため交通渋滞が起き警察に番組スタッフが注意を受けたり、一般人女性が物資援助として「ビタミン剤」と称して川元さんに下剤を飲ませたり、不良の悪戯で人がいない山奥に箱を置き去りにする嫌がらせを受けたり、それ自体がどこまで演出かは分かりかねますがそのエピソードを並べてみるだけで企画の過酷さと視聴者の野次馬性、残酷性みたいな深溝を覗きこまさせられるような悍ましさを感じてしまいます。

またこの企画の一応のコンセプトは「人を信じる事が出来ない川元さんが人の善意の触れ合う中で少しでも人を信じてもらえるようにする」というものなのですが、ボケなのか本意気なのか援助を受けても不満や罵倒を口にする川元さんの姿は視聴者からの評判は悪かったようで企画がスタートしても数ヶ月進展がなく最終的に川元さんと交際中の女性が現れてゴールまで箱を押して目標を達成し箱が開いて企画終了という結末を迎えました。箱から出た直後の川元さんは歩けないほど衰弱していてずっと暗い中に居たため視力も大幅に下がっていたという自ら出演を選んだとはいえ恐ろしい後日談があります。

今改めて振り返ると時代が違うとは頭でわかっていたとしてもその内容の壮絶さに驚愕をしっぱなしです。本当にこの内容が放送されしばらく続いていたという事実、そしてそれに感化され愉快犯的に反応する視聴者、もしくは企画自体がそこまでヒットしていないからか観ていたとしても受け流して記憶に残っていないであろう傍観者、などの今の時代のメディアリテラシーとの差に恐れおののいてしまいます。ただそれはこの番組の企画だけではなく時代的なものが雰囲気として大いに関与しているので感想を一方向に進めるように述べるのもどうかなとは思うのですが。そしてこの企画の一連の流れを観て思うのは、有吉さんとの印象の差です。

有吉弘行との比較

有吉さんも当時電波少年の企画の中で過酷な挑戦を強いられています。お笑いコンビ猿岩石として「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断する」という壮大な試練を与えられ見事クリアを果たしています。その果敢に挑む姿に視聴率は上がり帰国後猿岩石はアイドル的な人気を博しヒッチハイクの内容を記した「猿岩石日記」は250万部のベストセラー、秋元康プロデュース、藤井フミヤ藤井尚之兄弟提供「白い雲のように」はミリオンセラーになるなど社会現象的なムーブメントを起こしています。そののちにブームが去り猿岩石は解散。有吉さんはその時期を「地獄」と称しそこから毒舌タレントとして再びブレイクを果たし、現在の知名度を築いているのは周知の事実だと思います。

さてこの流れと印象の違いは何でしょうか?

電波少年の中には幾多の企画がありその中で芸人さんたちは大なり小なり視聴者から時に好意的に時に悪意的に印象を持たれそのイメージのままに画面の中でドキュメンタリーとパフォーマンスの境目を提示していたのだと思います。そしてその数多ある企画の中でこのふたつは両極端なほどに双方ののちの立ち位置も含めて視聴者の印象がかなり異なっています。もちろん箱男とヒッチハイクは言語が通じるかその内容が放送をされている地域かどうかという国内外かの違いと、閉じ込められて動けないか何もあての無い土地に放り出されるかという自由度の違いという根本的な企画のあり方が異なっているので比べるものではないかもしれません。

しかしながらこの川元さんと有吉さんの悪態をついたり罵倒したりする「毒舌」である要素と、ある側面ではその企画や芸人としての指針を遂行するための「愚直」な要素が、どこか重なる気がしてしまいそしてそれがなぜ現在このような二人の立ち位置の違いを生んでいるのか?と考えてしまうのです。

個人的な見解としては川元さんと有吉さんはその「毒舌」と「愚直」を行使する範囲とタイミングがちょうど逆転していて、そのバランスの違いが異なる立ち位置を生んでいるのではないかと感じています。

つまり
川元さんは電波少年という企画の中で芸人としての自我である「毒舌」的な態度を「愚直」なまでに貫く姿勢や覚悟があり、

有吉さんは企画意図を汲んだ上でそれを成立させるという意識の中で「愚直」であり、またそれとは別の企画を盛り上げるためであるならば「毒舌」も辞さない、

というようなどこにそのプロ意識的な芸人自我があるかの違いが何となく感じ取れます。そしてこれはどちらが正解であるとも言えません。

ちなみに有吉さんはテレビ批評を軸としていたコラムニストのナンシー関さんから電波少年の企画によって築かれたアイドル的な人気とその印象に疑問を投げ掛けるような文章を書かれています。さらに言えばその事すらのちに有吉さんが自己言及的に「ナンシー関さんに目が死んでいることを見抜かれた」とネタ化させています。この事からも有吉さんがその企画意図の中で印象をある程度請け負ったり乗っかったりして自己調整をはかりそれによって自らのポジションや振る舞いを提示してゆく文脈性の高い芸を行っている事が感じ取れます。(また最近有吉さんは限られた範囲でしか毒舌を言わなくなってきました。それもまた自己調整力を感じる部分です。)


川元文太の毒舌芸

さて、話を川元さんに戻しましょう。

有吉さんとの比較によって川元さんの

「毒舌的な態度を愚直なまでに貫く芸人的な自我」

が確認できました。

そうです。言ってしまえば川元さんの芸はこの要素が大部分を占めています。ほとんどそれだと言ってしまって言いかもしれません。有吉さんのように調整する芸ではそもそも無いのです。逆に言えば「どのシチュエーションでも川元文太でいる」というようなニュアンスの芸です。どの角度からもブラックさやシニカルさを含ませた発言や振る舞いを行う芸なわけです。

しかしながら、そうであるならばなぜ川元さんが芸人さん達から評価が高いのかが疑問として上がってきます。場に対して調整をそこまで試みていないタイプの毒舌やリアルな破天荒的な振る舞いはいわばやろうと思えば誰でも出来てしまうところがあるからです。無鉄砲なだけであるのであればそれはむしろプロ意識ではなく迷惑系な体当たり行為だと認識されてもおかしくありません。川元さんのこの売れている先輩を含めた芸人さん達からの厚い支持はなんなのでしょう?

しりとり名人としての川元

これに関しては関東ローカルで放送されていた虎の門という番組がその理由を物語っていると思います。2001年~2008年までテレビ朝日で生放送されていた深夜番組です。


虎の門という番組

いとうせいこうさんが司会をつとめた「うんちく王決定戦」「話術王シリーズ」など知的好奇心を刺激する一風変わったバラエティ企画が多数あり、出演者も若手芸人やマイナーなサブカルタレント的なポジションの人が入り乱れるように出演していて当時としては珍しいコンセプトと実験的な要素が強い番組でした。

この番組の「しりとり竜王戦」という企画で川元さんは活躍します。一言で言えば大喜利企画です。ルールはあるテーマに沿って順番にしりとりをしていきその回答を大喜利的に繋いでいくといういたってシンプルな内容です。しかしこれを生放送の中でたっぷりと間を取って制限時間内に答えさせるというシステムによりプレッシャーの重圧を何十倍にもかけて行われます。分裂思考を極限にまで擦り減らせ演者のボキャブラリーを酷使させる事で飛び出す語感や行間を味わう非常にハイセンスな遊びでした。この企画で川元さんはそのシュールでブラックな着眼点と世界観をシンプルな言葉で豊かに紡いでいきます。「どのシチュエーションでも川元文太でいる」という特性が追い詰められての一言という大喜利企画にハマったのです。板尾創路さんやよゐこ有野さん、千原ジュニアさんなどの大喜利の盟主が名を連ねる中川元さんは当時無名でありながら何度も準優勝を飾ります。

個人的に特に好きだったのは「ガッカリな言葉」というお題での「旅行に行きたいのだが鎖で繋がれている」「いい人なのだが作物に害を与える」や「NHKアナウンサーらしからぬ一言」というお題での「全ての女性を性対象として見ています」「スベったのでモノマネやります」などなど。この番組で川元さんと言えば大喜利が上手い芸人さんというイメージを持った人も多かったのではないでしょうか。川元さんの芸人さん達からの高い評価はこの大喜利企画での活躍が非常に大きいです。のちに2014年のIPPONグランプリの本戦に出場しています。



ただやはりここでも大喜利芸人と聞いた時にまず真っ先に思い浮かぶのはバカリズムさんという存在でありそしてそこには印象の差があるのが感じられます。


バカリズムとの比較


バカリズムさんは当時の虎の門には出演していましたが「しりとり竜王戦」には出場してはおらず、のちにIPPONグランプリで活躍しその名を轟かせてからネット上で特番として復活した虎の門の「しりとり竜王戦」で優勝を果たすという川元さんと逆の順序から同じ道を進んでいるかのような歩みをしています。

バカリズムさんと川元さんを大喜利芸人として同じジャンルに括り現在の立ち位置の違いを語るのにはその判断材料や両者の歩みの異なりが大きいためそもそも比較する事自体が無理であるように思えます。

ですがバカリズムさんも有吉さんと同様にその斬り口の発想も込みで「毒舌」だとカテゴライズされたりそのセンスをシュールやブラックだと形容される事も少なくありません。

あえて「大喜利的な発想の中に含まれる毒」という観点で比較してみるのなら、

川元さんは「常識や既存の価値観を毒の中に引き摺り込む」感じで

バカリズムさんは「常識や価値観の方に毒素をまぶす」というような

感覚的な違いがあるように感じます。


つまりバカリズムさんはその毒を忍ばせるように回答に織り交ぜて受け手に気付かせるか気付かせないかの絶妙な塩梅で笑いを取っていくやり方を好んでいると見受けられます。そういった傾向がわかりやすく表れているバカリズムさんのネタに「女子と女子」というコントがあります。

このコントでバカリズムさんが演じる女性役にはバカリズムさんの主観や偏見が含まれておりそれを皮肉たっぷりに誇張させて演じていてそこが面白さのポイントになっています。しかし特筆すべきはこのコントの中でバカリズムさんは明確に対象にどういった意味合いを含めてそれを誇張しているかその理由を一度も言及はしないのです。

それに比べると川元さんはどうでしょう?おそらくこういったサディスティックな角度自体をあまり提示しないと思いますが、もしやるのだとしたら対象に向かって言及をする事自体の面白さの提示になりそうです。つまり「言わない方がいいような事を言う」というような方向性のボケ方になると思います。

川元さんの回答は少しバイオレンスだったり分かりやすくクレイジーだったりします。それはもちろん倫理観を守った範囲の中で繰り広げられている笑いなのですが発想自体をオブラートに包むというよりはファンタジーである事を利用して剥き出しのままストレートにそこへ置いていくというような発露の仕方を好んでいると思います。

この二人の回答傾向の若干の違いは、生放送、関東ローカル、観覧客がいる、審査方法などの様々な要因と状況設定により微妙に左右されながら評価の範囲とタイミングがズレていったのだと感じます。

川元文太の大喜利芸

川元さんの剥き出しのストレートな発露はキングオブコメディの高橋さんが窃盗容疑で逮捕された直後にTwitter上にその事だと思われるコメントを呟いた時にもその凄みを感じました。

どれだけの人が悲しむかぐらい想像できたはずですよ

多くの芸能人が被害者の方の気持ちを汲む事とその社会的な立場を意識しながら言葉を選ぶ事を強いられながらある人は神妙にある人は感情的になる一方でSNS上と言えど高橋さん側にも寄り添った言い方をシンプルにストレートに言葉にしているこの言い方は川元さんにしか出来ないと思います。


さぁ、ここまでで川元さんの

「毒舌的な態度を愚直なまでに貫く」芸人的な自我と

「常識や既存の価値観を毒の中に引き摺り込む」ストレートな言葉

を確認出来てきたと思います。

この要素はやはり至って簡素的で我々がパブリックイメージとしても持ち合わせてる芸人さんという生き方の破天荒さを最小単位で表したような概念だと感じます。

しかしながらそれは有吉さんやバカリズムさんのような知名度の高い芸人さんが自己調整やオブラートによって使いこなしている面白さの肝の部分とその受け取られる印象が紙一重であるという事も同時に皮膚感覚として覚えたと思います。


芸人という存在としての川元

さてここからその実感を踏まえた上で、昨今の

「誰も傷付けない笑い」と

川元さんの笑いを比較してみたいと思います。

それをする事であくまで主観的ではありますが「芸人とコンプライアンスの関係領域」というもののひとつの指標みたいなものが見えて来るのでは?と感じているからです。

「誰も傷付けない笑い」という概念


しかし一口に「誰も傷付けない笑い」と括ってみてもその該当者は誰に当たるのでしょうか?

例えばそれはミルクボーイでしょうか?ぺこぱでしょうか?EXIT?宮下草薙?四千頭身?霜降り明星?かが屋?ここら辺は規定するのがかなり難しいとも思います。ですがやはりそれをあえて無理矢理統一し当てはめるのなら「お笑い第七世代」と呼ばれる年代の若手芸人達がそれにあたり、その世代特有の「否定しないツッコミ」であるとか「仲睦まじく歪み合わない関係性」とか「真面目にお笑いに取り組む姿勢」とかそういった雰囲気自体を象徴的に抽象的に表しているのだと思います。いわば世代的な空気感だとざっくり捉えてみましょう。

それに対して川元さんはどうでしょう?上記したように自己破産であるとか不倫であるだとか大御所への批判だとか政治的な発言だとか、そういった雰囲気とは真逆の姿勢のオンパレードです。

特にラジオでのトークが良くも悪くもかなりヒドくて聞く人は選ぶと思いますがその面白さは熟成されたかなりのものです。川元さんのプライベートなエピソードの破綻ぶりは他の芸人さんの破天荒キャラやクズキャラ的なものとは一線を画すリアルな一人の人間の欠落をそのままされけ出すどころか本人が隠す意思がなく垂れ流されている瞬間の妙な圧倒感と懐かしい安堵感のようなものが味わえます。意識をしなければ本来は皆等しくこういう存在なんだなという人間味のようなものをディフォルメせず誇張せずただただ吐き出すという意外と誰も出来ない事を平然とやってのけていると思います。そしてポイントなのはこの大竹まことさんのラジオでのトークで相方である黒田さんが川元さんに言った一言です。

「僕が好きなところは、自分の腹も切るところなんですよ。コイツは」

川元さんは「誰かを傷付けています」が同時に「自分も傷付いている」という事です。

それは単純な「毒舌」とも「自虐」とも違う物のように思えます。本来の「お笑い」というものの根源的な体現をただただやっているに過ぎないのだと感じるのです。「お笑い」とは何か?と問われれば僕は個人的には「差別」そのものだと捉えています。

差別との比較

ただ無意識に自分自身の腕力や権力の行使を自覚して振るわれる排他的な暴力そのものを指しているのかと言われるとそれは「お笑い」と皆が呼んでいるものとは言い難くなります。しかしながらそれはイメージの話にしか過ぎないわけでもあり、その暴力と圧倒的に関係の無い視点から傍観的に眺めて少しでもほくそ笑んでしまったらそれは本人の中ではどんな理屈を並べようとも「笑い」という文脈になってしまう構造からは免れません。「笑い」とはその思考現象を拙い解釈ながら言葉にすれば共感や違和感の共同体への表明であり相手への敵意の無さの提示でありつまり「見下す」という関係性が感覚として含まれるものなのです(それは「可愛い」という愛玩感情も含まれるが基本的には「かわいそう」という見下しの感情が出発点であると感じます)。赤ちゃんへのいないいないばぁですら対象への敵対心の無さの提示がその構造に組み込まれています。

川元さんはその「かわいそう」をギリギリの所で相手にも自分にも「お笑い」として切り取って表現しようと常に試みています。

また相方の黒田さんはその川元さんのギリギリの「かわいそう」というボケを絶妙に一般人的な感覚で無情にツッコミを入れます。黒田さんのツッコミによって「お笑い」として完成するわけですがそれは同時に観ている我々はその「かわいそう」を消費している事にもなるわけです。(また黒田さんのキャラクターの絶妙な薄っぺらさもその一般大衆的な感覚の中に川元さんの非常識的な言動行動を組み込ませる運動への拍車をかけているようで興味深いです。)


一個人の捉え方のひとつでしかありませんが「お笑い」は

「完璧に毒抜きされた安全な食材」なのではなく
「合法の中で普及している依存性のある薬物」という感じです。


ダブルブッキングのコントを観ているとその事実から目を逸らさずきちんと確認させてくれた上で面白さを提供してくれます。

ダブルブッキングのコンプライアンス芸

過剰予約を意味するそのコンビ名は、本来達成される事の無い自己矛盾を含んだお笑いとしての面白さと、非常識なものに対する見下しの感情の難しい両立を表しているのかもしれません。ただこれらのコントが「誰も傷付けない笑い」と形容される事の多いグループと比較してこちらの方が優れているという話ではありません。逆に言えばどちらも「誰かを傷付けている可能性がある笑い」でありダブルブッキングはその事に関して自覚的に提示している部分が構造として大きい割合を占めるというような解釈です。

いかがでしょうか?

これによって見えてくる「芸人とコンプライアンスの関係領域」はお笑いそのものが等しく差別であるわけなのでそこに対して芸人自らがどのように立ち位置を提示するかという事が重要になります。その価値観自体は時代によって容易く変化してしまうものである事は当時の電波少年の放送内容から観ても感じ取れます。ある種そういったものを無意識に許容して受け流していた時代の空気の反動が皺寄せとして今の時代の過激さやハラスメント的なものを糾弾しても良いという風潮を促進させてもいます。しかしそのスタンダードすらも今後どうなってゆくのかは分かりません。何を差別とするかの判断は時代の空気によって潜在的に左右される要素がかなり大きいと感じるからです。

川元さんのように「毒舌」と「自虐」をストレートな手法で体現しようと思うとその立ち位置は何処か今のメディアやエンタメのメインストリート的なものの中心からは外側に置かれます。コンプライアンスという円の中には身を置いていないようなイメージです。しかしながらそれは同時に自己調整やオブラートを使いこなさず剥き出しのままの人間味としてあらゆる差別をお笑いに変換させる全体の価値観の土台となるような位置取りにもなっているわけです。つまり「お笑い」の側から「差別」が差別されているような状態であり、それもまた一種の「かわいそう」を内包した「お笑い」のひとつの形という事です。差別という円の中にお笑いという円がありその中にコンプライアンスという円がある。川元さんのいる領域がベースとしてあるからこそ有吉さんやバカリズムさんのような領域か成り立っているという事です。くれぐれも捉え違えないでほしいのはダブルブッキングはそういった笑いだけではありません。大衆ウケも取れる幅広く対応している面白いコンビだという事を重ねて付け加えたいと思います。


最後にまとめと言いますか、川元さんの笑いのシチュエーション的な傾向を書いて終わりにしたいと思います。

川元さんの「毒舌的な態度を愚直なまでに貫く」芸人的な自我と

「常識や既存の価値観を毒の中に引き摺り込む」ストレートな言葉

「誰かを傷付けている可能性がある笑い」という事の構造的な自覚

これらは全て制限というものの中で生まれやすくなる笑いです。

それはテレビの企画を成立させるというタレントとしての基本姿勢や、実験的な深夜番組で生放送の中で追い込まれながら行われる大喜利や、コンプライアンスが強まっている世の空気の中でそれを打破するかのような方向性の提示など、それらの制限を設けられた時によりその密度が高まる重厚的な面白みです。

それがまた何処かでボケなのか本意気なのかわからぬまま放たれた時に我々は反応せずにいられるのでしょうか?常識や道徳観や正義心を後ろ盾にして野次馬性を満たしながら思考を揺さぶられ、反発するかのように行われる愉快犯的行為、傍観者としての見えてないふり、それら選択してしまうような感覚を抱かずにいられるのでしょうか?個人が他人に強いてしまいたくなる制限という箱の中に川元さんを閉じ込めてしまおうとする大衆心理を我々は押さえる事が出来るのでしょうか?

川元さんに

「メディアで扱いづらいだろうなぁ…」と感じた時

箱の中に閉じこめられているのは我々の方なのかもしれません。



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