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キャンセルカルチャーと竹山のキレ芸の相関関係

ここ最近、小山田圭吾さんのいじめ問題や小林賢太郎さんのコントの中でのユダヤ人大量虐殺を扱った台詞、竹中直人さんの放送禁止テレビなど、かつてサブカルと呼ばれていたような領域のカルチャーにざっくりとですが位置付けられていた芸能の方々が五輪関連に携わる事でその当時の発言や表現などを掘り起こされそれが不謹慎であると主にSNSなどで糾弾され役職を辞任、解任に迫られるという流れが出来上がっています。

これらはミクロとマクロのどちらの視点も意識した方がいいと個人的に感じます。五輪というもの自体の立ち位置がこの時代に様々な要因で変容している事と、それに伴っている政治や産業、経済、国家間の問題とやはり今回コロナによってそれら以外のものも影響を受けて出来上がっているパブリックイメージも含めた全体像がまずあって、そしてさらにそこに関わり合う人々とそれで形成される内部組織、体制、それらを外側からどう観られるかという国際的な観点、ダイバーシティ、コンプライアンス、SNSの普及やその認識の世代差、さらにそこに日本の芸能とメディアの歴史の中でメインカルチャーとサブカルチャー、ハイカルチャーとカウンターカルチャーがどういったバランスで均衡を保っていたのか、等々。実に様々な要因が複雑的に絡まり合って引き起こっている現象なのだと思います。正直難しくて何が正解なのか全然わかりません。

お笑い好きとしてはやはり小林賢太郎さんの件が衝撃として大きかったのではないかと感じます。Twitterにも書いたのですが今回の事は一応流れとして小林さんもといラーメンズという存在の立ち位置がどう変容していったかを振り返る事でなんとなくではありますが把握できる部分がある気はします。


小山田圭吾さんの件も当時の空気感がどうであったのかという文脈が掴みにくくそれを踏まえた上での議論になっていかないところが非常にことをややこしくしている要因だとも思います。さらに提示されているトピックのインパクトが大きすぎて今回どういった流れでこれらの件が公に出たのかの背景も共有されずに情報だけ波及している点も問題ではあると感じます。また報道されている流れに大衆心理が作用してもいるので小山田圭吾さんと小林賢太郎さんの件を倫理観的なものとして同じ土壌で語る事自体は違うような気もします。それらを踏まえた上で小林さんの件についてあんまりそこへの言及がなされていないなと感じる個人的に違和感を覚えている部分があります。

それは「あのコントのあのギャグの部分の面白さ」についてです。

これは擁護しているわけではなく、ましてや差別を助長しているわけでもありません。
ただ、今回の情報が共有されていく中でそのギャグ部分の倫理的な観点と、時代性と、作品の中での文脈性と、そしてそれらが切り取られて解釈が広がり傷付く人々とそれらが反動で吊し上げになる現象の中に誤解や愉快犯的なものも含まれてしまうネット社会性など、そういった部分で論じられているものを目や耳にする機会が目立つなと感じていてそれはすなわち「公共性」という観点だと思います。しかしこのコントはそもそもかなり閉ざされた空間で披露されていた「密室性」の高い代物なのです。

ラーメンズ自体がそういった限られた範囲や支持層の中でブランディング化してゆく事でここまでの地位を手に入れたタイプの芸人さんで、そしてその中でも当時のお笑いライブ文化が収録されているVHSの中でのひとネタの中での一言であるのでそれはかなり限定された領域で成立していたものです。そもそもそういった過激とも捉えられかないようなネタで神格化したからこそ初期のラーメンズは頭角を表していたわけで、正直オンエアバトル時代のネタはここまで直接的ではないもののテイストとして近いものはいくつか見受けられます。ただそれは当時ラーメンズだけがそうだったというわけではありません。もちろん今回五輪というパブリックな領域に到達したからこそ働いた作用であって過去の事とはいえ公共力学の現象として当然と言えば当然の結果であるとも捉えられるでしょう。

そして
あのギャグはその上で面白かったし、今観ても面白いものだと個人的に思います。

重ねて言いますが差別を助長しているわけではありません。これはどこをどう面白がっているのか?という視点の話でありそしてお笑いと差別との関係性はなんなのか?という観点の話でそこを踏まえていなければ何がどう問題なのか自体も提起が人によって変わってしまいます。その事は今回の件に置いて核心的な部分であり論ずられるべきだと思います。


そこで出てくるのが今回のタイトルの芸人さんカンニングの竹山さんです。

カンニング竹山と炎上芸

唐突に感じるかもしれませんが、今回の小林さんの炎上めいた騒動と竹山さんの基本的なお笑いのあり方は根幹的な部分でかなり近い構造だと思います。ちなみに竹山さんはこの一連の騒動とは切り離されたところで五輪関連の呟きをしていて炎上までとは言いませんが少し批判的なものと称賛的なものがない混ぜになった注目の集め方で話題をさらいさらに自身の番組でその経緯も説明していました。

ではなぜ竹山さんと小林さんの騒動が近いと感じるか、そして「あのコントのあのギャグの部分の面白さ」について、あくまで個人的な捉え方ですが言語化してゆきたいと思います。もしよかったらご興味のある方はお付き合い下さいませ。


それにはまず竹山さんがどういう芸人さんなのかという事について観ていかなければいけません。それは竹山さんがかつて組んでいたカンニングというコンビについて振り返るという事になります。

カンニングという漫才師

カンニングは1992年〜2006年まで活動していた漫才コンビです。相方の中島さんが亡くなられた事で実質的に解散という形になり竹山さんは現在のピン芸人というスタイルになっています。

カンニングの漫才は竹山さんが中島さんや観客、その他の自身の置かれた森羅万象全ての事象に向かって一方的にキレて叫び喚き暴れ騒ぎ立てて居直るという破天荒なスタイルでした。「キレ芸」と呼ばれるものです。

元々は芸歴を重ねても売れず借金が膨らみその好転しない現状を「なんでこんな目に遭わんといかんのじゃぁ!」と舞台上でネタ中にキレた事がきっかけだそうです。最初は観客ではなく仲間内の芸人さんしか笑わなかったそうですが続けていくうちに徐々に浸透していったそうです。

ここで確認しておきたいのは

この「キレ芸」という仕組みで、なぜ笑いが起きて観客の前でショーとして成立するのか?

という事です。

当たり前の話に感じるかもしれませんが、これが芸ではなく実際に竹山さんが本当にキレてて観客の前で叫び喚き暴れ騒ぎ立て回って居直ったらそれはショーではなくただの事件であり目も当てられない悲惨な状況でとてもじゃありませんが笑えるものではありません。

竹山さんのキレ芸は「人前でキレて叫ぶ」という行為がアブノーマルな状態であるという事が前提として共有されている上で披露されている代物です。それは竹山さん本人の意識を中心に、相方の中島さんから仲間内の芸人さん、そしてそのキレている状態をキレ芸だと把握している観客、さらにそれが舞台で成立している事を聞きつけたバラエティ番組のスタッフがメディアに乗せて波及させる、というような順番でどんどん前提共有を広げて行く事で形を成してゆきます。つまり共犯関係を結んでいく人数をどんどん増やしていってるわけです。

お笑いに置ける「お約束」というものは何も最初から「お約束」として成立していたわけではありません。本人の意識がそれをわざと意図的に行なっているという事を他者に伝達させなければコミュニケーションとしても破綻してしまうからです。お笑いの「お約束」は誰かが笑っていなければそもそもお笑いとしてていを成してはおらず、例えバナナの皮で滑って転んだとしても周りに誰も居なくて1人しかいない状況ならそれはただの事故なわけです。

そしてこの竹山さんの「キレ芸」はそれを面白いものだとしてショーの中で提示し他者に笑ってもらって「お約束」ゾーンに持ってゆくまでにかなり狭い範囲で何回か内回転をしてから披露されています。簡単に言えば「お約束」化させるまでの工程に「裏笑い」というものが成分としてかなり含まれています。

先程の例に上げた「バナナの皮で滑って転ぶ」というお約束は

まず「転ぶ」がハプニングを伴うアブノーマルで

さらにそれが小石や段差等につまづいたわけではなく「バナナの皮」というアイテムでひきおこっているアブノーマルで

そしてそれをお笑いの舞台などで意図的に演じ笑いが起きてそれが定型化し受け手ともども前提共有がなされるその事自体のアブノーマルさによってそこで初めて「お約束」化されるのだと思います。

ではその上で竹山さんの「キレ芸」はどうでしょうか?

まず先程述べたように「キレる」という行為がアブノーマルで

さらに「人前でキレて叫ぶ」という行為がアブノーマルで

さらにそれを「漫才のボケ役の中で人前でキレて叫ぶ」という行為がアブノーマルで

さらにそれを「ボケのひとつとしてキレるんじゃなくて漫才中終始キレているスタイル」がアブノーマルで

さらにそのキレている内容も「明らかに漫才のボケと分かるようにキレるんじゃなくて「売れてない」とか「借金がある」とかプライベートな切実な事を極めてリアルな口調でキレている」というアブノーマルで

さらにそれらのネタが「観客が本気で捉えたり単純に引かれてウケなかったりして成立してなくてもその事自体にキレる事で強引に成立させる」というアブノーマルで

そしてその全部を受け手が前提共有として踏まえた上でそれが笑いと共にショーとして成立しているアブノーマル

というここまで来てやっと「お約束」化されるわけです。

この長い長い「裏笑い」を経てかろうじてお笑いとして成立させている事自体が「キレ芸」の肝の部分であり、これらがどれかひとつでも欠けると「竹山さんが本当にキレている」だけになってしまいます。おそらくまだカンニングが世に出たてでテレビに出演し始めたばかりの頃はその前提共有のないまま漫才を観て本当にキレていると思ってしまった視聴者も多いのではないでしょうか?

とまぁここまではある程度構造的な説明です。これを把握した上でもう少し掘り下げると

ではなぜ「キレている」で笑うのでしょう?

キレ芸で笑いが起こる仕組み

キレるという行為に伴うのは怒りの感情です。それは笑うという行為に伴うおかしみとは真逆の感情に思えます。前述した構造の話で言えばそれは本当に竹山さんがキレているわけではないからギャグとして理解でき笑えるというわけですが、なぜそれがネタの中だとしても「キレている」をギャグだと認識出来るのでしょうか?

そこにはフィクションといえど受け手の「差別」意識が内在しているからです。

この単語を使うのは分かりやすくするためあえてですが、やはり意識や感覚としては「差別」や「偏見」「軽視」「侮蔑」「見下す」というようなものの最小単位がそこにはあると思います。もう少しライトな言い換えをすれば「かわいそう」です。

そう思えるのは対象への敵意の無さであり安堵感、愛着へ直結してゆきます。また対象と自分を比較した場合の己の優位性の自覚でもあり、それを深めるための対象への「レッテル張り」でもあります。

端的に言えば

「人前でキレて叫んでる売れてない芸人の竹山って奴かわいそうだな。竹山と比べたら自分は全然マシだから笑える」

という事です。

このフィクションをショーと言えど極めてリアリティを持ち合わせながら披露されているので疑似体験だとしても本能的な「見下し」が発生しているというわけです。そしてこれがネタとして成立しカンニングという漫才コンビが売れたという背景には大衆心理としてこの「見下し」の感情が伴うアブノーマルは逆を言えば対象と受け手の距離感も大きく開いていたというわけでもなく若干の「共感」も心理としてあった時代だったのではないでしょうか?要するに「人前でキレる」というアブノーマルに対してのハードルの低かったという事です。

「人前でキレる」はアブノーマルであったけどハードルが今より低かったからギャグとして成立する範囲としてちょうど良かったのだと思います。

カンニング竹山という芸人はこのアブノーマルのちょうど良さへの見極めが非常に上手いと感じます。厳密に言えばちょっと成立していないラインへ到達してもいるのですが、そのバランス感覚はギリギリアウトだったりセーフだったりするからこそ笑えないかもしれないという感情と同時に面白さが発生しているのもやはり事実ではあるのです。

特にピン芸人になってからの「放送禁止」という単独ライブでのネタはそういった「キレ芸」の応用とでも呼べるべきアブノーマルの前提共有が多種多様な形で表現されています。

自らの不倫報道を載せられると知った出版社に突撃したり、薬物問題や障碍者問題に斬り込んだり、相方の中島さんの死を笑いに変える漫談を披露したり、テレビで出来ない内容のネタをライブで追求しています。また自身の冠番組であるAbema TVの「土曜The NIGHT」では和歌山毒物カレー事件や西成あいりん地区を取り上げたり、別番組で誤情報を流布した等の件で東京都と揉めていた一連の騒動についてこの番組で時間をたっぷり取って語ったりとネットだからこそ取り扱える題材の企画を敢行しています。内容的に上岡龍太郎さんが90年代に日本テレビ系列でやっていたEXテレビを彷彿とさせます。

そしてライブやネットという限られた範囲で繰り広げられる密室芸的なものだけでなく、ワイドショーのコメンテーターとして世論だけでなく自身も含まれるメディアそのものにキレてみたり、またバラエティ番組ではボケ役としてのキレキャラがもはや破綻していてイジられることに対してキレるという一周回ったゾーンに突入させる事で安定感を生みむしろキレるという「毒舌」や「炎上」というような要素を孕んでいたはずのキャラクターを時代に合わせて器用に回避しているようにも見えます。逆を言えば竹山さんのキレ芸が大人しくなってきた理由はSNSで誰でも発信が当たり前になっていたり、メディアそのものでなくその番組のスポンサーにクレームを入れる事で視聴者が抗議を出来るという事が広く認知されていたり、世論を形成する個人そのものがキレる手段を獲得した事による社会全体の流れ、キャンセルカルチャーという名の民意のキレ芸が発達した事によるものかもしれません。

これらの竹山さんの面白さは全てタブーとも言い換えれると思います。「差別」を含んだ「かわいそう」という意識や感覚を薄めて広げていった先には「関係ない」「めんどくさい」「よくわからない」「なんかこわい」というような曖昧領域が広がっていて漠然とそれらを畏怖の念的なものとして扱い皆無意識のうちに蓋をしていると思います(逆を言えば権威や死などの「なんかこわい」と蓋をしがちなものに対しても薄めていくと対象を個別として認識しようとしない「差別」的な観点が含まれるのだと感じます)。

その蓋をこじ開けるのがお笑い芸人の指名であるとか表現者はそれを追求すべきだと言っているわけではありません。というかそれは表現する側の問題であって受け手である観客には正直あまり関係ないのではないかなと思います(その取り上げられている社会問題などについて関係ないと言っているわけではありません)。むしろそういった大衆の無意識の蓋に対してギャグにする事でウケやすくなるからお笑い芸人はそれらをネタにする傾向があるのだと感じます。



キレ芸と炎上の二律背反的構造

さて、その上で小林賢太郎さんもといラーメンズのコントの中での差別発言についてですが、構造としてもこれは竹山さんの「キレ芸」と同じだと思います。ただそれがかなり広い範囲にむしろ矛先が向いていて、相方や観客やそのコントが成立しているかどうかそのものへのアブノーマルにはなっていないという違いがあったと感じます。そしてその上でウケている事も重要です。竹山さんが漫才の中でキレているていを取っているのとは違い小林さんはコントの中の人物に乗せて発言しているという点に置いてもその場の観客との共犯関係具合が若干異なりますが、本質的な部分としては「差別発言そのものに対する差別意識」をギャグとして提示しているというアブノーマルでありそこにややこしさはあれど観客との前提共有があった上で披露されているしそういった発言を人前で行うことに対してもまだまだハードルが低かった事もうかがい知れます。(ちなみにあのネタ的にはユダヤ人虐殺よりもオチとして展開されていた同性愛ネタ的なものの方が本質的な揶揄になっていると感じます)。


だからこそ時間が経過した今改めてそのコントを観るのであれば、それらを差し引かずにむしろ前提共有をより深めて観賞しなければいけないと思います。たしかに倫理的に良くはない事を言っているのですがやはりそれは公共性の部分であって「これは差別発言だ」という前提共有のみで捉えようとするとそもそもの「なぜ差別発言として成立しているか」も見誤ってしまう可能性があると思います。「最小単位の差別であるお笑い」という密室性、つまり観客は何を前提共有して面白がっているのかを前提共有出来なければ、そもそも差別としても成立しなくなってしまうからです。ただ「言ってはいけないことを言っている」とレッテル貼りをする行為は排他的でありそれこそ差別に繋がる恐れがあります。舞台上で一方的にキレ散らかす竹山さんと一緒です。


かなり露悪的な観方ですが今回のような件が無い世界線で「20年前に差別発言をネタの中でした事で地位を剥奪されるコント」をラーメンズが演じた場合、受け手である我々は笑わずにいられるのでしょうか?それは架空の話ではありますがどちらも等しく差別意識であり、竹山さんの「キレ芸」を当時本当にキレていると思っていてテレビの前で観ていた視聴者がいるのかもしれないからこそ面白さの濃度が増していた共犯関係の立脚の仕方と変わりはないのです。

もっと言えば屁理屈に近くもなってしまいますが開会式の中で行われていた表現に差別や偏見は含まれていなかったと言えるのでしょうか?劇団ひとりの顔芸を楽しんだ人々のそれは嘲笑と呼べないのでしょうか?ピクトグラムの表現は制限を設けられたいるからこそ感情移入をするわけですがその応援的な気持ちと見下しの気持ちは実は近い領域にある物ではないでしょうか?竹山さんのキレている姿に笑ったり引いたり煙たがったりするのと、いじめや差別表現に対して糾弾したり擁護したりそれ自体を煙たがったりするのとでは、本質的に何が違うのでしょう?考えてもなかなか答えは出にくいと思います。


いかがでしたでしょうか。

カンニング竹山さんのキレ芸の面白さを言語化しようと試みてゆく事で昨今の五輪関連での小林賢太郎さんの炎上騒動を中心に差別意識やそれを前提共有する事でお笑いとして成立してゆく構造とそのアブノーマルやタブーがどういったライン引きをされていてまたいかに変容したのかもなんとなくではありますが感じれたのではないでしょうか?

カンニングは何にキレてたのか?

最後に竹山さんがそういったアブノーマルを内包しながら「人前でキレている」という行為によって差別意識や畏怖の念を突破しているように感じる表現を紹介して終わりにしたいと思います。

竹山さんはタケヤマカルメラというユニットで左とん平さんの「ヘイユウブルース」をカヴァーしています。

最近なかなかデビュー当時の「キレ芸」を行わなくなったといじられがちですが、経年変化によってむしろ現在の自身の立ち位置をフリに「キレ芸」がしにくくなった環境の原因を四方八方にキレまくる竹山さんを確認できます。表現形態が変わってはいるのですがこのアブノーマルこそ不謹慎だとか偏っているだとか胸に刺さったとか感動しただとか賛否両論含めてさらに自らがキレる事で物も申すカンニング竹山という芸人のアイデンティティそのものなのだと感じます。

そしてそれを感じた時にカンニングとしてカヴァーしていた「ヘイユーブルース」も思い出します。

今の竹山さんと違いキレ方がより初期衝動的で単純に面白いですね。
中島さんのシャウトもいい味出しています。

この頃竹山さんはエンタの神様でキレ散らかして「ここでうんこします!」と宣言しスタッフに連れ出されていました。差別や糾弾やコンプライアンスやダイバーシティや多様性について考える時、なぜかその瞬間を思い出してしまいます。

「売れるわけあるか!」というキレ芸で売れたその掟破り感

カンニングという名の不正行為は無意識に誰もが持ち合わせている悪賢さへの

畏怖の念なのかもしれません。

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