ドストエフスキー『白痴』と孤絶した三人

以前書いたスラブ語文学のレポートをそのままに載せます。ネタバレ注意。

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ドストエフスキーの『白痴』の終盤では、ムイシュキン公爵とナスターシャ・フィリポヴィナが婚礼に漕ぎつけるも、まさしくその挙式の当日に、公爵と同じくナスターシャを愛するロゴージンによって彼女は奪い去られ、結婚はついぞ果たされないものとなる。
そしてロゴージンを追って彼の宿に辿り着いた公爵は、ナイフで刺し殺された死体となって横たわるナスターシャの姿を見つけ、かれら三人は同じ部屋で夜を明かすことになる。このきわめて印象深いシーンが意味するところを、ムイシュキン公爵、ナスターシャ、ロゴージンら三人の関係性に着目して読み解きたいと思う。

まずこれら三人の人物造形について言えば、ムイシュキン公爵は「白痴」と呼ばれる純粋な人物であり、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャともまた異なった、ある意味での愚直さを備えた人物である。ただし興味深いのは、彼が作中でしばしば憂鬱とも言いうる苦悩に襲われるという点であり、それは世界からの孤絶感に由来している。ナスターシャは汚辱に充ちた環境で育ちながら、決してその矜持を失わない高潔な人物である。ロゴージンは直情的かつ粗野な人物であるが、一方では公爵に親近の感情を抱くなど、単なる暴力的な人物としては描かれていない。
このように、登場人物たちは決して安易には類型化されることのない内面性をそれぞれに備えており、その交錯が先述の事件に行き着くと考えることもできる。

そもそも、ナスターシャが結婚式の当日にロゴージンと逃避することを選んだのはおそらく、ムイシュキン公爵よりもロゴージンの方を愛していたから、という訳ではない。彼女は自分自身の過去の汚辱に罪悪感を抱き、それゆえに、公爵の純粋さを自分とは不釣り合いなものと見做し、言わば公爵への愛のために彼との結婚を拒んだのである。
ここにはひとつの葛藤が、純粋な精神をもちながら自分を純粋な人物だと思うことのできないナスターシャの葛藤がある。そして彼女がロゴージンを選んだというのは、純粋さの対極にある汚辱、すなわち彼女が自己認識として己に見出した汚辱の世界を、ロゴージンに重ねて考えたということである。一方でロゴージンはその狂奔的な愛ゆえにナスターシャを求めており、こうした食い違いが、やがてロゴージンにナスターシャを殺させたのだろう。

そして、自身が殺めたナスターシャの死体のある部屋に公爵を呼び入れるロゴージンの様子に敵対的なものはなく、どこかしら諦観が漂っている。先に述べたとおり、恋敵である公爵に対してロゴージンが取る態度は複雑であり、ロゴージンの申し出によって二人が十字架を交換する場面もある。それはロゴージンが公爵に対して、一種の羨望を、その純粋さに向けられた(少なからず同時に嘲弄でもありうるような)羨望を覚えていたからだと感じられる。

また、同様の羨望や尊敬を、ロゴージンはナスターシャに対してもおそらく覚えていたことだろう。この場合には、きっと羨望は友愛ではない愛へと転化するのである。このような、自分の属しえない世界に存する二人に与えられるロゴージンの眼差しが、物語全体をつうじて彼の言動の端々には纏わっていると思われる。

それでは、ムイシュキン公爵はこのような純粋さと汚辱を選別する見方でもって、他の二人との関係を捉えたであろうか。おそらく、そのようなことはない。というのも、こういった選別とは無縁であるということがまさに公爵の純粋さなのであって、公爵はナスターシャとロゴージンの両方に敬意を抱いていており、ともすれば彼ら二人を自身よりも尊敬に値する人物だと見做していたからである。これは公爵が抱いていた孤立の感覚、世界のうちで自分だけが理から取り残された、無知な人間であるという感覚に通底しているだろう。

そして、このような感覚の延長には、友愛と性愛とを完全には峻別しえない自分自身に対する葛藤というものも、多分に存在したと思われる。ロゴージンに部屋へと招き入れられて、己の花嫁となるはずであったナスターシャの死体を見出したムイシュキン公爵は、その犯人たるロゴージンに決して強い怒りを抱くことができない。公爵はナスターシャを愛したように、依然として友人ロゴージンを愛してもいるのである。ここには友愛と性愛の隔たりの希薄さ、ただ全的な他者愛のみがあり、作中でムイシュキン公爵はこの差異をしばしば問うてもいた。
公爵にとってナスターシャとロゴージンは、自分とは違いこの二種類の愛の隔たりを明確に知っている二人でもあっただろう。ここではロゴージンを憎みえない自分自身という存在に否応なく公爵の目が向けられたはずである。

ムイシュキン公爵とロゴージンは、死んだナスターシャの臥しているベッドの横に床をしつらえて、ひとつの部屋に三人で眠ることにする。病気で発熱しているロゴージンは譫言のようなことを言った後で呆然となり、やがて意識を失って眠りに就く。やがて部屋に入ってきた人々が発見するのは、この病人の枕元に座って、宥めるようにその手を取ったり、頭や頬を撫でたりする放心したような公爵の姿である。

この場面において、三人はやはり図式的に様々に切り分けられる。まず、この部屋にいるのは一人の死人と二人の生者である。しかし、それは一人の起きている者と、二人の横たわっている者である。そして一人の殺人者と、二人の罪なき者でもある。さらには二人の友人ともう一人、二人の愛し合った者ともう一人でさえある。このように、三人に絶えず伴っていたであろう孤絶の感覚は、この場においてもなお彼らのうちにそれぞれ分有されており、それが痛切なまでに顕在化しているのである。

もっとも、この最後の場面に慰めが見出されるとすれば、それは部屋に踏み込んできた人物たちが、おそらく室内の三人になにか共通した性質を感じ取ったであろうということである。このときナスターシャはもはや見ることも聞くこともしない死人であり、ロゴージンは熱に浮かされて意識が朦朧とした眠る人であった。そしてムイシュキン公爵もまた、身も心も抜け落ちたような状態にある、ほとんど外界への応答を失った、小説内の言葉で言えばいかにも「白痴」としてある人だったのだ。 

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