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ふたつ目がこっちを見てらぁ

「たまたま」という言葉がある。

これを読んでいる皆様方におられては、そのご意思如何に関わらず、この「たまたま」の二つの意味をご存知だろう。

そしてそれはきっと、決められた道で通学していたような頃に得た知識だろう。

「たまたま」には主に二つの意味がある。
・偶然
・キンタマ

何言ってんの、とは俺も思ってるさ黙ってろよ。

喧嘩腰のその腰の下部に視線をやりながら、僕は驚いたふりをして猫にすり寄りその名前を呟くのさ。

そんな冗談を言いながら、たまたま、とタマタマ、を交互に言っているうちに、悲しくなった。
広義ではアラサーなのにまだキンタマが面白いからではない。
ふたつ目の「マ」と目が合ったからだ。

主に「偶然」の文脈の「たまたま」を「タマタマ」と発音した場合、ふたつ目の「マ」は相手に受け取ってもらえない。

たとえばこんな場合。

「玉置って覚えてる?中学ん時同じクラスだった。この間新宿でタマタm」
「たまたまな、タマタマじゃなくて」

みっつ目もよっつ目も、いつつ目もむっつ目もちゃんと相手に受け止ってもらえるのに、ふたつ目の「マ」だけは受け取ってもらえない。

タマタマのふたつ目の「マ」は、この世に存在することを許してもらえない。僕らはその「マ」が発話されるのを阻止しなければならない。存在してはならないものなんて数少ないのに。

待てよ、たまたまかもしれない。

こんな場合はどうだろうか。

「ただいま!聞いて!セブンの方通って帰ってきたんだけど、橋の前がヤンキーの溜まり場になってて、まあビビりながらも横を通ったのね。したら、そのうちの一人が藤川球児でさ!ラッキーだよなあ、サインもらっちゃったよ。気まぐれでいつもと違う道をタマタm」
「たまたまな。タマタマじゃなくて」

あーやっぱりだめだ。というか一緒だ。
いずれにしてもどうしたってmぐらいで阻止されてしまうんだ!

やっぱり彼は存在してはならないのだろうか。いやいや、そんなはずはない。だってふたつ目はこっちを見ている。

mめ。お前が悪いんじゃないのか。お前が「マ」の居場所を奪っているんだ。そうだ、そうに決まっている!

田中裕二に思いを馳せながらA-Studioを見ていると、鶴瓶師匠の生え際のM字にさえ腹が立った。普段はあんなに心地良いのに。

何かがおかしい。

気を落ち着かせようと銭湯に行くと、似たようなM字が何人もいてさらにむかついた。逆さになればいいんだと思い逆立ちをすると、今度はmが視界に飛び込んできた。

タマタマだ。

ああ、そうだったのか。
mだって「マ」の一部なのだ。ひいてはタマタマの一部なのだ。

逆さにするとタマタマそのもののようだけど、彼はその要素でしかない。僕らのエゴによりその姿で世に引きずり出された、カケラなのだ。

そう思うと、その姿で存在することを恥じてそっと閉じられたまぶたのように見えてきた。

恥じることなんかないんだよ。
君はただ、この先も生きようとしていただけなのだから。

生きることが苦しくとも、恥じることなどなにもない。

彼を、救わなくてはならない。

でも自分に何ができるっていうのだろう。


ふたつ目がこっちを見てらぁ。


mを救ってくれと懇願するように。



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