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渋谷と親と投球フォーム

コロナは嘘、らしい。
本当か嘘かなんて興味がないのでその結論に辿り着く根拠は知らないけど、そうらしい。

渋谷が苦手だ。人が多いことや、そこにいる人の相容れなさや、理由はいろいろあるけど、なるべく近づきたくない。
と、前々からそう思ってはいたけど、その思いが増した出来事が、いつぞやあった。

スクランブル交差点。
行き交うのは人ではなく、愛や憎悪、性や金だという。
恐る恐る近づくと、「コロナは嘘だ」というのぼり旗が左手に見えた。その隣でマスクをしていない女性が叫んでいたのも、そんなような主張だった。
どんな主張も一旦は聞いてみようというスタンスなので、左耳のイヤホンを外し、右耳ではクリープハイプの左耳を聴いていた。
クリープハイプのくだりは嘘なので、きっと向かいでは誰かがのぼり旗を立てている。
 女性はこう言っていた。

高校生の息子に「お母さん、そんな活動しないで」と言われたけど、私はそれでもこの活動を続けなきゃいけないんです!

念のため言っておくと、僕は映画「アルマゲドン」のパパに対してすら、感動よりも苛立ちの感情が勝る価値観の持ち主だ。要するに地球よりも家族を大事にしろ、という危険思想を持っているので、いくらその人にとって誇り高き言動であったとしても、家族、特に子どもがそれを良しとしていないのなら慎めよ、と思う。
とはいえ、その人にとってはそれが家族を想っての行動なのかもしれない、と思うとますますつらい。ああそうか。人と人とは違うということを、嫌というほど感じさせられる街、それが渋谷なのだ。だから僕は渋谷が苦手なんだ。
人と人とは違う。みんな違っていいんだと主張した詩人に敬意を表するとともに、そんなの当たり前じゃないか、だからつらいんじゃないか、とへそを曲げる自分もいる。
スクランブル交差点の中ほどを過ぎても、まだまだもやもやしている。
コロナが嘘か本当かなんてどうだっていいから、息子を尊重する愛し方をしてはくれないか。親ガチャなんて言葉はクソだけど、それでも勝手に可哀想だなとは思ってしまう。
脳内が許容と糾弾とでスクランブルしている。ふぅ。
スクランブル交差点を渡りきると、人並みは方々へ分かれていく。許容は公園通りへ進み、僕は糾弾とともに道玄坂をのぼる。
予定していた送別会を終え、スクランブル交差点に戻ってくると、許容と再会した。 感動はないままに犬の像に目配せし、フリーハグをすり抜けて改札を通る。山手線のホームはどこまで歩いていけばいいのかわからない。
どこだっていいのだけど、答えがほしいのは、きっとのぼり旗のせいだ。
何が正しいのかなんてわからなくて匙を投げる。この世はわからないことばかりじゃないか!と声高に主張する衝動はもうないけれど、匙の投げ方だけは染み付いている。
自転車の乗り方忘れない的なアレ、なんていうんだっけ。…ああ、手続き記憶か。

そんなことを考えながら相容れない人たちと乗る相容れない乗り物。

左から、相容れない、相容れない、一つ飛ばしてべっぴんさん、てな具合だ。

相容れない相容れないと線引きしているから相容れないんだっていうけどよお、どうすりゃいいんだよ、渋谷。




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