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焦げた匂いがすると思ったら自分の肉が焼かれる匂いだった

できるだけ小さいものを考えてみよう。
たとえば苺だ。
苺は一般的にいって「ちいさいもの」と感じられるだろう。
だが平均的な苺より平均的な豆のほうが小さく感じる。
豆をもっと細かくしてみよう。細かく砕いて、粉々になって、まるで鉛筆の黒鉛くらいまですりつぶして、それでもさらに小さくみていくと、そこにはタンパク質があらわれる。

タンパク質の構造はいろいろだが、たいていは炭素(C)と酸素(O)と水素(H)と窒素(N)がタワーマンションの住民の人間関係のように複雑になったものに過ぎない。つまりタワマンがいかに複雑に見えても、高層階、低層階、角部屋、成金、生まれながらの金持ち、芸能人、YouTuberといった単純な人間個人の要素に還元できるのと同じだ。

タワマンの住人が単に「住人」と呼ばれるのと同じように、タンパク質は、それぞれがいかに個性的であっても、一般に「タンパク質」と呼ばれる。

なぜタワマンを例に出したかというと、こんな漫画を読んだからだが、まあそれはどうでもいい。

豆のタンパク質をニガリに混ぜると豆腐ができる。ニガリと呼ばれているものの正体は塩化マグネシウムだ。実際には市販されている豆腐には泡立ちを抑えるための消泡剤というのが入っていて、要はグリセリン脂肪酸エステルやシリコン樹脂のことだ。

シリコン樹脂の組成は当然シリコン(Si)と酸素(O)からできている。
シリコン樹脂の便利なところは、200度の熱に耐え、撥水性があり、電気絶縁性に優れていることだ。紫外線や放射能にも耐え、-75度でも変質しない。

だが我々が最も効果的にシリコン樹脂を使うとすれば、そこにほんのわずかな不純物、たとえばアルミニウム(Al)やホウ素(B)の分子がほんの少しだけ混ざるときだ。そうしたとき、シリコンは絶縁体ではなく半導体に変化する。この状態の半導体は、本来は分子よりもさらに小さい電子があるべき場所にないので「あな」があいてると表現される。この孔は、「あるべきところに電子が欲しい」という切実な願いをもっており、つねに電子を求めてウズウズしている。これをP型半導体と呼ぶ。

また別のシリコンに、今度はアルミニウムではなくヒ素(As)をほんの少しだけ混ぜてみる。

ヒ素は人体にとっては有害な毒だが、人類にとっては多大なる恩恵をもたらす。ヒ素の混じったシリコン半導体では、電子が自由に飛び回ることができる。これをN型半導体と呼ぶ。

重要なのは、P型半導体もN型半導体も、単体ではさして役に立たないことだ。

最も重要な現象が起きるのは、P型半導体とN型半導体を隣りあわせたときである。

くっついた状態のP型半導体とN型半導体に電流を流すと、N型半導体からは自由電子が接合面に向かって突入し、P型半導体はまってましたとばかりに孔を電子に埋めようとする。これを再結合と呼ぶ。再結合されると、電子と孔が本来あるべき姿になることで急激に落ち着く。落ち着くとエネルギーが余る。有り余ったエネルギーは、光に変換され発光する。これが光放射ダイオード、いわゆるLEDの原理である。

P型とN型のインターフェースから放たれた無数の光子が俺の目を眩しくさせる。

そいつの本来の目的は、少なくともおれに目を細めさせることじゃない。
小さな、小指大の鏡筒が冷酷に俺を見つめている。その鏡筒は俺の目を見ていない。そうだとしたらえらいことだ。こいつからはLEDなんかよりもはるかに強力な光が放射されている。LEDから出る光は無指向性だ。つまり無数の光は、無数の方向に散らばって飛んでいく。

しかしこの鏡筒から放たれる光は、完全にある一つの目標地点に集中し、そこを焼き焦がすことだけを目的に放たれる。

そいつが今、俺の口腔を焼いている。何が起きているのか、麻酔でよくわからない。だが、肉の焦げる匂いでわかった。これは俺の肉が焦がされている匂いだと。

うまそうだ、とは思わなかった。まあ、実際食べたらうまいはずもない。たとえおれが人間ではなく牛だったとしても、牛の歯茎を食べたいと思うやつにはまだ会ったことがない。

歯科矯正中にひどい歯肉炎になってしまったので、麻酔をして増殖しすぎた歯肉細胞をメスで切り取り、切り口をレーザーで焼いて塞いでるのだ。

驚くほど痛みがない。
自分の肉が焼ける匂いなど、滅多に嗅げるものでもない。まあ嗅ぎたいとも思わないが、しかしこの医師にとって人の肉が焼ける匂いというのはごく日常のものなのだろうと思うと、なんだか別世界に迷い込んだような気がした。

手術はあっさりと終わり、消毒剤と念の為の痛み止めだけを処方された。

「食事制限は?」

「別に。好きなものを食いなさい」

「酒はのんでもいいですか?」

「浴びるように飲まなきゃ平気だ」

「まあその前に眠くなりますね」

鏡を見ると、歯茎が綺麗に整えられ、しかし歯茎の端は赤黒く焦げていた。かさぶたのようなもので、3日もすればとれるという。

「レーザー、すげえな」

そう思った。