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魂の永続化手段としての人工知能

昨日は未踏AIフロンティアの最終成果発表会で、数々の優秀な発表が行われた。

その後、反省会で振り返りながら、暦本先生と去年のパスファインダーだった大曽根さんと話をしていた時に、「人間としての思考活動のピーク」を記録する存在としてのAIと、その後も成長を続けるAIについてちょっと喋ったのだが、割といいことを思いついた気がしたので忘れる前に書いておく。

まず、大前提として、人類はその歴史において、数々の賢者や支配者たちが永遠の命を求めてきた。不老不死への憧れである。

しかしか弱い人類はどれだけ富を重ねようとも、またどれだけ身体を鍛えようとも寿命という病に冒され、誰もが永遠に生きることができるわけではなくなった。

そこで彼らは、熊が冬眠するように、芋虫が蛹になるように、全く別の形態で自分の魂を永続化する方法を見つけ出した。それが言葉である。

DNAという情報から生まれた人類が、人生という期間を経て、言葉という情報を遺し、次代へ伝えていく。この方法を確立したことで、人類は生物種として望み得る最大級の寿命を獲得した。

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特に、文字というメディアが発明されたことによってそれは加速した。

紀元前5000年紀に発明された文字は、現在までその影響力を残している。

その過程で様々な人々が様々な方法によって自らの考えや魂を永続化しようと試み、成功している。聖書はもちろん、アル・フワーリズミーの著作とそのラテン語訳、言葉による思想の体系としての論文、書物といったものが次々と揃えられ、本が全くない時代に生まれた人たちと比べて本に溢れた世界に暮らす現代の人々にとっては、「自分だけが見つけた新しく人類の未来に残すべき叡智」を探し当てる難易度はむしろ上がっている。

しかし今日最も普及した「言葉」、すなわち「文書」には明らかな欠点があり、今日最も多くの人々が浴びるようにしている「言葉」、すなわちYouTubeの動画のようなものにも共通の問題がある。

それは、自分の疑問に直接答えてはくれないということだ。

僕はGPTシリーズを盲目的に信仰することには否定的な立場だ。確かに「スケールの法則」によれば、大量のデータを大規模なパラメータのネットワークに学習させれば「精度」が上がる、というのは事実かもしれない。

しかし、「精度」とは何か。

現在用意されている「精度」を図るための方法は、主に読解力を測るためのテストで、それは出来上がった文章の価値と必ずしも直結しないどころか、考え方によっては、全くナンセンスである。

たとえば

「健二はバナナが好き。机の上にバナナがある。バナナを食べたのは?」

という設問があった時、答えは「健二」になると思われるかもしれないが、健二がそこにいるという情報はないし、健二はお腹がいっぱいかもしれない。そこに健二がいたとしても、他の人もいたかもしれず、僕なら答えは「わからない」と答える。

このような設問に答える「精度」が上がったからといって、そのAIが高性能な知性を持つとは断定意できない。

むしろ高い知性とは、前提を疑い、新たなフレームを定義し、構造を破壊するところに真の価値があるからだ。GPT単独ではどこまで行っても二流のライター、二流の作家しか生み出すことができない。

それは身体性を持たないからだ、とか、人生を経験してないからだ、とかまあ色々な考え方があり得るが、ちょっとこの話は後でまたしよう。

さて、人類がAIを必要とする目的について、考えたことはあるだろうか。

この質問をすると多くの人はギョッとする。

「便利だから」「いや本当はそんなものいらないんじゃ」「お金が儲かるから」

色々な答えは想像できるが、実際のところなぜ、「人の代わりに人のように考えてくれる機械」が必要なのかきちんと理解してる人は少ない。

もともと人工知能の原型である自動集計機が発明されたのは、1890年だ。

当時のアメリカ国勢調査において、「人間による集計ではとても実用的な統計が得られない」ことからである。

つまり、人類がAIの第一歩である「自動集計機」を必要とした理由は、政治経済という実に切実なものだった。

当時、アメリカ経済は順調に発展し、多くの人々がこれ以上ないほどの繁栄を謳歌していた。誰にも不満などなかった。その時代の人に「集計を自動化してあげる機械を売るっていったらいくら出す?」と聞いたら、笑われただろう。「それの機会がどれだけ安かろうと、集計のアルバイト代より安いとは思えない」だろうからだ。

次に人類に進化を迫ったのは戦争だった。

まず、人々は集計よりも複雑な計算を行う自動計算機を必要だと考え始めた。アメリカではそれは弾道計算のために用いられたが、最初の自動計算機は優れた人間よりも計算速度が遅かった。それでも大半の人間よりは計算が速くて正確だったのでその多大なるコストにもかかわらず採用された。これがエニアックである。

一方、英国では自動計算機は計算という概念のより本質的な応用として試されることになった。それまで計算で扱うものは数字であったが、ゲーデルが導入したゲーデル数という概念を使えば、言葉や関係性などあらゆるものを数として扱うことができる。これを応用して暗号の自動解読を行なった。のちに、それのみならず戦況の自動分析と戦略立案といったものにも自動計算機が活用された。

この時代も、自動計算機を個人が個人の目的のために使われることがあるとは誰にも想像できなかった。そもそも何の計算をするというのだ。

戦後しばらくはコンピュータの先端研究は主に米ソの軍事研究機関で行われた。

その中で個人用コンピュータに言及したのはリックライダーだが、彼は「ヒト-機械共生」の中で、「線を引いたら計算を補助してくれる機械」や、「弾の弾道を視覚に映り込ませて予測を補助する」ための計算機能が必要となることを示した。これもあくまでも戦争に勝つためだ。

リックライダーは戦争に勝つための高度な人工知能、人工知能の膨大な知識を格納しておくためのデータセンター(思考センターと呼ばれていた)と、各地に散らばった思考センターと兵士個人を結ぶための相互接続可能なネットワーク、そして兵士が実際に現場で使用するためのユーザーインターフェースの4つが必要だと論じて、それぞれの分野に国家予算を投入した。

いうまでもなく、これがインターネットとグラフィカルユーザーインターフェースの萌芽となっていく。この時点で、誰も主婦がグラフィカルユーザーインターフェースを操作してインターネット上のレシピを検索する未来は描けていない。もし考えたとしても馬鹿馬鹿しいと思われただろう。

どれほど優れたアイデアがあったとしても、それを具体的に裏付ける資本や実行力を伴わなければ、そのアイデアは存在しないも同然である。

リックライダーの支援を受けたダグラス・エンゲルバートは、マウスとハイパーテキスト、ウィンドウを発明した。しかしエンゲルバート自身は、彼の機械は一部の訓練された超エリート兵士のためのものだという考えを持っていた。彼の考えていた「人間拡張(Human Augmentation)」とは戦争に勝つための一種の知能サイボーグのようなものだったのだ。

エンゲルバートの基本的なアイデアはアラン・ケイに受け継がれたが、ケイは少し違った見方をしていた。

彼は「誰にでも自分自身の思考能力を拡張できる機械」の可能性をエンゲルバートのデモに感じ取ったのである。そこで「誰にでも」の例として子供でもコンピュータを使いこなせる世界を夢想した。もしくは、年齢に関係なく、どのような人でも普遍的に持っている、「子供らしさ」を引き出すような機械の発明である。

その後、自動計算機は発展を遂げ、1970年代に全く別個に進歩していた半導体技術と結びついてマイクロコンピュータへと進化した。マイクロコンピュータの次の段階、普及段階に必要なものは何かを模索していたジョブズとゲイツはともに、アラン・ケイのコンセプトに飛びついた。

そこでMacとWindowsが生まれた。

この進化の過程で、当初必要とされていた「計算及び集計の自動化」はおまけ機能にトーンダウンしていった。そもそも計算や集計といったことは、普通の人が頻繁に接することがないものと考えられていたからだ。

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