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新刊出ます。「検索から生成へ」

先月発売した「教養としての生成AI」おかげさまで売れ行き好調なようで少しホッとしています。そしてこのタイミングで新刊のお知らせです。

前作「教養としての生成AI」では、ここ半年から二年くらいの話がメインテーマでした。激動の時代の中にあっては、発売後一ヶ月を待たずしてすでに情報が古くなりつつあります(それでも結論は変わらないのですが)。

それに対して、8/25発売予定の新刊「検索から生成へ」は、コンピュータ誕生100年の歴史を振り返りつつ、より本質的な問い掛け「これから何が起きるのか」ということを探っていくという内容です。

「教養としての生成AI」は、コンセプトから初稿までをほぼGPT-4だけが書き、それを僕が上からリライトしたり追記したり削除したりというやり方、いわば「AI先行」の方法で書きました。

それに対して、本書は僕が構成を考え、序文を書き、その続きをGPT4と交互に書くという、「AI補助」型の書き方を試しています。

なので同時期に書かれたにも関わらずこの二つの本は全く異なる内容になっています。

もともと僕の興味の中心はマクルーハンのメディア論でした。
「メディア論」とは、人間の使うさまざまな道具ツールを全て媒体メディアとして捉え直し、これまでの人類の発明(話された言葉、書かれた言葉、数字、衣服、家、家族、宗教、政府、写本、活版印刷)を踏まえて、その先の未来像を予言し、描き出すという学問です。

このようにして生まれた成果の一つが、我々がいま毎日使っているスマートフォンです。

アラン・ケイはマクルーハンがメディア論を体系的に解説した本「グーテンベルグの銀河系」を読むのに一ヶ月を費やし、そこに着想して個人のパーソナルメディアという発想に至り、当時は高価でとても個人が所有するとは考えられなかったコンピュータと組み合わせて、「パーソナル・ダイナミック・メディア」を構想します。これが現在、我々が「パーソナルコンピュータ」と呼ぶものになり、その思想に強く影響を受けたスティーブ・ジョブズがiPhoneとiPadを生み出した動機になっています。

僕の本当の興味はその「先」 つまり、スマートフォンやタブレットの「先」に何があるかということです。ちなみにVRやARは答えではありません。それは1960年代にすでにアラン・ケイのチームが検討しているからです。僕はアラン・ケイの思想に憧れ、自分なりに新しいコンピュータ、次の世代のコンピュータを構想しようと奮闘しました。その挑戦を始めてからもう十年が経ちます。

アラン・ケイ氏本人にも二回お会いして、ディスカッションを重ねる中で、非常に重要なヒントをいくつも貰いました。最大のアドバイスは「コンセプトを今ある安いハードで実現しようとするな。使うなら普通の人が買えないような最高級のマシンを使え。どうせ安くなる」というものでした。確かに、アラン・ケイがパーソナルコンピュータを着想したとき、コンピュータは非常に高価でした。そしてそれがあっという間に誰もが買える値段にまで下がりました。

旅の初めに、僕はアラン・ケイの時代になかった要素をひとつ見つけました。ディープラーニングです。ケイの時代にはディープラーニングはありません。実現不可能にも思えるほどのものでした。したがって、「次のコンピュータ(スマートフォン)」となるものには人工知能の搭載が不可欠であると思います。

2014年からそのための研究に取り組み、僕はいつのまにか人工知能に詳しくなっていました。「人が生き、考え、創作するとはどういうことか」という秘密を知るため、複数のアニメーションスタジオに通ったこともあります(今考えるとなんで通えていたのか謎が深すぎますが)。

多くの偉大な方々の、おそろしく寛大な助言の数々を得て、僕の旅は進んでいます。本書はそんな旅の途中に見つけた色々な発見をまとめたものです。

海外のアニメスタジオも見学しました(なぜか)

その一つのキーワードが、昨年のICCで尾原和啓さんのセッションで語った「検索から生成へ」というテーマでした。この四半世紀は検索連動広告が大きく飛躍した時代でした。そのなかで、特にIT業界の人々は検索こそ全てという間違った錯覚に陥っています。言うまでもなく、検索はそれほど重要なことではないのです。

技術の「先」に何が現れるかということを考える時、技術とは全体でひとつの巨大なスピーシーだと考えるやり方があります。僕は人工生命の研究家でもあるので、生命に例える隠喩メタファーを好みます。

技術全体をスピーシーと捉えた時、それを「テクニウム」と呼びます。

「教養としての生成AI」はまさに「教養として」生成AIについて知っておきたい最低限の知識やそれが生まれた背景について解説しました。

「検索から生成へ」は、さらに大きく、人類がどこから始まって、最終的にどこに辿り着くのか、そのときに今起きている「生成AIによるパラダイムシフト」はどう作用するのか。その点についてできるだけ色々な資料を調べて書いています。

また、一部の歴史的事実については、これまで公開されてこなかった情報もあるため、当事者に確認してもらい、リライトしてもらっています。

「教養としての生成AI」は新書でした。要は「時流に乗った本」です。
「検索から生成へ」は、僕は大学で講義をするときの教科書に使おうとおもって書きました。現時点での僕の捉えている世界観をできるだけ詰め込んだ本です。

「AIが補助」だったのでこれはそんなに早くは書けませんでした。執筆の途中で挫折したりやる気がなくなったりしてなんのかんので一ヶ月はかかってしまいました。その分、力の入った内容になっていると思います。ぜひ。