見出し画像

24時間経過して改めて「君たちはどう生きるか」を考える

昨日の「君生きショック」から24時間が経過した。
以下、ネタバレはしないように気をつけるが、この映画に関してだけは、一切の予備知識がないほうが初見は楽しめると思うので、見てない人は読まないでください。


昨日は朝8時の回を見て、そのまま映画ファンの友人と新宿のフレンチでワインを飲んだ。飲まずにはやっていられなかった。

フレンチに行った理由は、単に手っ取り早く酒が飲める店が時間帯的にたまたまそこしかなかったからだ。

それから家で寝て、また起きて、夕方再びその友人と、彼の自宅の近くで梯子酒をしながら「あれは一体何だったのか」と語らった。

いつも以上に圧倒的な情報量。過去作で最も情報量が多いかもしれない。時折関係を読み取れない部分があるのは、あえて語られていないからだ。スタンリー・キューブリックの映画「2001年」と同じように、言葉で語られていなところに真の意図が隠されているように見える。これは何かの象徴なのか、意図したものなのか、或いは・・・

ただ我々は、創作者と呼ばれる人々が決して常に全くの無から物語を作っていないことを知っている。その程度には、創作者というものを知ってしまったのだ。

衰えを全く感じさせないパワフルなアイデアの連続。旧作のパッチワークに見えるという人もいるが、それはむしろ作画に関わった人々みんなの集合的な意識として「そう」見えてしまうだけで、ひとつひとつの事物のディティール、選択された情報と切り捨てられた情報、表面的にはそうだが、その背後はまた違うこと。隠喩。もはやこれ自体がダビンチコードであり、秘密結社の暗号のようにも思える快作だった。

絵も動きももちろん素晴らしいが、それ以上に全身全霊を傾け、安易に言葉に頼るのではなく、物語のなかの行動でタイトル通りに「君たちはどう生きるか」を問いかけてくる。

たぶん10回くらい見ないとわからないんじゃないか。
たとえ見たとしても、わかったつもりになるだけであってほんとうのところはわからないんじゃないか。それは分かってほしいけれどもそうは言ってほしくないという、一種の作家のエゴだろう。

凄まじい想念が映画全体から伝わってくる。
スローな始まりからスタートして、中盤は走馬灯のように物語が展開し、愛とは何か、世界とは何かを問いかけてくる。

今賛否が分かれているが、紛れもない傑作だと思う。
モナリザや弥勒菩薩半跏思惟像のように、繰り返し繰り返し鑑賞し、自分の内側にあるものと作品とを対比させながら、静かに心に浸透させていく。

年齢的に最終作のように思われるが、これが最後とはどうしても思えない。
これを作ったのが齢80を数える人物とは到底信じられず、ただただ作家の持つエネルギーに圧倒される。

これまでにないほど自由に、思いの向くままに言いたいことをワーーーッと言って、やりたいことをやって、ストンと。「さあ、家におかえりなさい」と追い返されたような。今見たもののこと、その後のことは自分で考えなさいと語りかけられているような。

そもそも最初に書き始めた時と途中とで、書きたい話が変わってきているんじゃないか。でもよく考えると、昔からそういう作風だった。

一日経っても色褪せない衝撃の体験。

さて、俺たちはどう生きるか。
じっくり考えてみようじゃないか。