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teamLab Borderless Jeddahは究極のイマーシブオーディオだ! / ど素人のピュアオーディオ入門番外編

ド肝を抜かれた。

そう表現するしかあるまい。
今年オープンしたばかりのチームラボ・ボーダレス・ジッダ。
ジッダというのは、サウジアラビアにある紅海に面した都市で、聖地メッカに最も近い空港がある。

このジッダの空港は、メッカへの巡礼者専用のターミナルが用意されるなど世界にも例を見ない施設となっている。

渡航にはあらかじめ観光ビザを取得する必要があるが、オンラインで簡単に取れる。

最大の問題は、なぜか僕の手持ちのクレジットカードで日本からチームラボのチケットが買えなかったことだが、現地に着いたら何枚かあるカードを試したら買うことができた。

チームラボは世界中に「ボーダーレス」というテーマの美術館を開設していて、まさに「ボーダーレス」と呼ぶに相応しい国境や宗教、文化を超えた作品を発信し続けている。

「どうせ世界中同じなんでしょう?」と思うかもしれないが、そこはアーティスト・コレクティブであるチームラボ。同じであるが違う。境界がないボーダーレスのである。

日曜日の初回という時間だったが、館内は比較的空いていた。これは、現地の人は真夏の日中はあまり出歩かないからだと思われる。なんせ気温40度だ。

 実はサウジアラビアが観光ビザを発給し始めたのは、2019年から。つまりわずか5年前。観光客として訪れた日本人がまだそれほどいないので、日本ではほとんど知られていない、いわば手付かずの観光地なのだ。

そんなジッダに作られたチームラボは噂に違わぬ威容を放っている。
まず、建物が一見してチームラボとわかりにくくなっている。

これがチームラボ・ボーダレス・ジッダ

これもサウジアラビアの国家的背景に配慮して、周囲の環境に溶け込むための工夫だろう。

その代わり、中に入った時のコントラストがすごい。
東京のチームラボしか知らないと、「こんなに人が少ないチームラボの展示があり得るのか」と逆の意味で感動する。

僕しかいないクリスタルの部屋(奥に見えてるのも鏡に映った僕)

これは贅沢。
ここまで来なければ絶対に体験できない、まさかのチームラボ独り占め体験。

ここが観光地として認知が広がってしまうと、おそらく世界中の他の施設と同じように人でごった返してしまうだろうから、まだ人が少ない今がおすすめだ。

いつもの展示のように見えて、「ちょっとずつ違う」のを楽しむ

チームラボの展示は例えテーマが「ボーダーレス」と「同じ」であっても、展示の詳細が違う。ゴッホがたくさんの「ひまわり」を、モネがたくさんの「蓮」を描いたのと同じように、チームラボは「同じだけど違う」を繰り返す。それは人間の創造性は、決して完全に同じものを二つと作れないのだという、人間性の証明でもある。

壁面を歩く動物戯画に触れると、こちらを振り返る

館内全部がチームラボ一色。当たり前だが、当たり前を超えた感動。
普通、人がいない美術館というのは情報過多で何を見たらいいのか、どう見たらいいのか申し訳ない気持ちになるのだが、チームラボの場合、情報量そのものが過剰なのでいい意味で「諦めてみたいようにリラックスして鑑賞する」ことができる。

このチームラボの「ボーダーレス」というテーマを、これほど完璧に体験できる施設は世界中探しても二つとないのではないか。それもこのジッダの地で。これはもう感動しかない。

そんなわけでいつも以上に「チームラボ」を楽しんだわけだが、最後にとんでもない「新作」が僕を襲った。もちろんこれは僕が「新作だ」と考えてるだけで他のところにも同じものがあるのかもしれないが、とにかくぶったまげたのだ。

Abyss

無数に並べられたムービングライトによる、光の彫刻
よく、「光の彫刻」と呼ばれる作品が生まれるが、これこそがその名に相応しい。

一つ一つは単なるプログラムで駆動するムービングライトに過ぎないが、それらがアルゴリズムによって連関して動いた時、文字通り空間に光が結集し、とんでもない幻惑的体験をよびおこす。

今調べたら僕がまだ行ってない麻布台ヒルズにもあるみたいなので、これはぜひ帰国してからも確認せねば。

ただ、この展示を文字通り独り占めできたのはジッダに来たからこそだろう。

あまりの凄さに二周、三周と放心して見入ってしまった。
咄嗟に空間ビデオも撮影してホテルに戻って確認したが、この凄さの半分も再現できていなかった。

記録し、再現するためのテクノロジーがどれだけ進歩しても、アーティストはその進歩を軽々と乗り越えてくる。人の想像力は、そして何より「アルゴリズム」は、こんなにも感動を与えてくれるのか!

その事実に震えた。
そしてこれは視覚的な体験であると同時に聴覚的。触覚的体験でもある。
例えば光が集積されたことによって生まれた粒子を触ると、それを認識して弾けるというインタラクティブ要素がある。

それぞれの粒子を触ると「弾ける」ようになっている。これがまたすごい快感を呼ぶ

音楽と視覚、そして身体感覚までもが連動し、とてつもない感動を重奏的に奏でる。これが本当の没入イマーシブオーディオ体験ではないか。

土地柄もあってか、アートを楽しむという領域を通り越して、宗教的啓示さえも受けてしまいそうな、捉えようによっては恐ろしく過激な作品だ。人の積み重ねてきたものの価値、世界、人と人ならざるもの、生き物と生き物ならざるもの、その境界を無くしてしまっている。人工生命の研究者として捉えれば、チームラボの作品は本質的に生命である。変化を続けながらも同一性を時間と空間を超えて保つホメオスタシスを備えている。

何ひとつ具象的な表現はないが、全体として恐ろしくダイレクトに心と魂に訴えかけてくる。

これはまさしく、偶像崇拝が禁じられ、カリグラフィックやアラベスク模様が発達していった独自のアート観が広がる中東世界に全く相応しいものだ。そもそもアラベスク模様だって原初のアルゴリズミックアートではないか。アルゴリズムの語源であるアル・フワーリズミーもアラブ世界の人だ。全ては根底で繋がっていて、同じでありながら二つとない。その瞬間しか存在せず、同時に同じであり続け、増殖し続ける。生命としての条件を全て備えていると言って良い。

そう考えると、なぜサウジアラビアやアブダビといった中東諸国が競ってチームラボの美術館を設置したがるのかわかる気がする。

これらは西洋的具象的アートへのアンチテーゼであり、ある意味でアラベスク美術の継承者であるとも言える。

そういえばチームラボのモチーフにはやたら植物が多い。これも見ようによってはイスリーミー(蔓草)美術の現代系とも捉えることができる。

こうした文化圏で育った人々から見れば、チームラボは異質なものではなく、むしろ身近なものとして感じられただろう。これまでチームラボが具象的な表現を半ば意図的に避けてきたことも奏功してか、全体として見事にこの地に根付いている。

するとジッダにあるチームラボ・ボーダーレスの意味は、東京にあるものと根本的に違ってくることに気づく。これは現地で体験しないことにはどうにも伝わらないだろう。

とてつもないものを見た。
また来たい。