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AIが浸透すると人類はネコになる!?暦本vs落合のぶっ飛び対談本

ああ憂鬱だ。
何が憂鬱って、来週のことを考えると憂鬱になるのである。
来週はアホみたいに忙しい。最近ずっと忙しいが、来週は濃すぎる。

月曜日は水口哲也さんの家に行くことになり、火曜日は台湾へ行くことになり、現地で弓月ひろみさんとComputexを視察して、あけて木曜日に戻ってきてあけて金曜日は落合陽一さんと暦本純一先生と三人でトークイベントをしなければならない。

つまり、インプットホリデーならぬインプットウィークである。
ただでさえ毎日ネコの目のように変化するAIシーンを紹介(インプット)してるというのに、その上まだ俺にインプットしろというのか。

いや、わかってる。これは全て自分で招いたことなのだ。
別にComputexに行く必要はないし水口哲也さんに誘われても断ればいい。

そもそも、落合、暦本鼎談なんか、企画の段階で断ることは十分できたはずなのだが、つい引き受けてしまった。

なにが困るって、この二人が最近本を上梓したことでこの企画が決まったと言うことだ。そして僕の立場は、なんとZEN大学客員講師として、である。ZEN大学からはまだ一円ももらってない。でも断れない。だって川上さんにやってくれって言われたんだから。

というわけで、人間はしがらみでできている。

今日は珍しく休み・・・というわけでもなく、夕方からの技研バーのオープンのために技研に来ている。

休みたい、と思いつつイベント前には二人の本を最低でも読んでおかなければならない。なんて憂鬱なんだ。本を読む時間を捻出するのがこんなに難しいとは。そもそも本の発売からイベントまで二週間弱しかない。事前に原稿を見せてくれといってもマガジンハウスの編集者にシカトされ、一体誰のためにこのイベントをやるのかわからない。

暦本先生とは結構長い付き合いだ。僕も数年前まで暦本研に籍を置いていたが、特に役に立つ様なことはしなかった。一回か二回、登壇したくらい(覚えていない)。

落合陽一くん(最近ぼくは意図的に落合先生と呼ぶことにしているが、ここでは関係性が複雑なので敢えて初めて彼を知った時に呼ばれていた敬称である"くん"にしておく)に対しては、彼が学生の頃から個人的にファンである。ファンであるがあまりのめり込むとそれはそれで気持ち悪いと思うので遠くから応援している。そして落合くんも暦本研の出身者であり、これはとりもなおさず、ただの暦本研の同窓会(といっても僕はほとんど関わりはないが)のようなものになってしまう。そんなものでお金をとって人を呼んでいいのか?

ところがゲンロンカフェのチケットは即刻完売し、ネット中継チケットしか残ってないんだと言う。どういうことだよ。どんな背景の人間が聞きにくるのかぜんぜんかわらんのがゲンロンカフェの怖いところだ。

あらかじめ言っておくが、なぜ僕が彼らが書いた本を読むのが憂鬱なのかというと、それがつまらないと思っているからではない。おそらく面白すぎるからだ。面白すぎる本を読んでしまうと、しばらくそのことで頭がいっぱいになってしまってほかの情報がインプットされなくなってしまう。

それがキツイ。普段の仕事にも支障が出てしまう。明日は日曜日だがもちろん仕事だ。「教養としてのAI講座」がある。我ながらなんでこんなに働いているのか全くわからない。

しかし読むチャンスは今日しかない。
技研バーが開くまでのわずかな時間。全神経を集中して読むーーーッ!!!!

ところがビックリした。
おどろくほど読みやすいのである。

落合くんも暦本先生も、正直言って一対一で話してる時は全くブレーキを踏んでくれないので何を言ってるのか理解するのが難しいのだ。

この、「学者先生と話をすると何を言ってるのかわからん」という現象は、特に同じ分野の先生と話をする時に起きやすい。

たとえば、量子コンピュータの先生と話すと、量子コンピュータの先生は専門外の僕にわかりやすいようにブレーキを踏んで話をしてくれる。

しかしコンピュータサイエンス、特にユーザーインターフェース系のコンピュータサイエンスの先生は僕を見ると容赦無くノーブレーキで情報を大量に送り込んでくる。

これまでで一番話している内容がその場ですぐにわからなかったのはアラン・ケイだが、二番目は石井裕先生だった。暦本、落合もそれくらいわからない時がある。

なので、頭が知恵熱でパンクするのではないかと警戒しながら読んでみたのだが、なんと、二人と直接話すより遥かにわかりやすいのである。

それはたぶん、鼎談するのにゲラも見本誌を送ってくれなかった、僕からするとやや感じの悪いマガジンハウスの編集者の方が非常に丁寧に脚注をつけたり、誘導したり、読者が「?」と思うポイントで要所要所質問を入れたりしてくれることで、話の流れが見やすくなっており、「おお、そんな話があるのか」「おお、それはそう言う意味だったのか」とかゆいところに手が届く内容になっている。

え、これもう鼎談とかする必要ないじゃん。この本読めばいいじゃん普通にと思うのだが、やるとなったら仕方ない。なにか考えておかなくてはなるまい。

暦本先生も落合くんも、AIを専門としているわけではないが、コンピュータサイエンスの延長上として早い段階からAIを使いこなそうとした先駆者であると僕は評価している。

これ、今なら違和感ないかもしれないんだけど、僕が本格的にAIの仕事を始めた2014年(もう10年前か)には誰にも理解してもらえなかった。

その頃の僕は、コンピュータとOSそのものもを作ってみて、「コンピュータの先には何があるか」考えようとしていた。その過程でAIにたどり着いたわけだけど、 ほとんどの人には「AIとコンピュータ」の関係は、「AIというプログラムがコンピュータの上で動いている」としか理解されなかった。それは現象だけ見ればそうなんだけど、本質的にはAIがコンピュータを置き替えていくということなのだということを、ほとんど誰にも理解してもらえなかった。

つまり、パイプ椅子を見て、「それは金属だ」と言うのと同じだ。たしかにパイプ椅子を作っているのは「金属」というパーツだが、プラスチックになるかもしれないし、カーボンやセラミックでもパイプ椅子が作れるかもしれない。しかし重要なのは使われている素材ではなく、「パイプ椅子」というアプリケーションなのである。この場合、「パイプ椅子」がAIであり、「金属」がコンピュータに相当する。

暦本先生はかなり早い段階から「ディープラーニングを取り入れたユーザーインターフェース」の研究に着手していた。口の中でモゴモゴとコマンドを呟くだけでAlexaを操作するSottoVoiceは、暦本先生が自ら設計したニューラルネットを用いて試作された。この頃、暦本先生は「ニューラルネットを書けないのは新たなネット弱者」みたいなことを言っていて相変わらず面白い人だなと思った。

落合くんは厳密にはユーザーインターフェース(だけ)の研究者ではないが、メディアアーティストとして、最新のAI技術を貪欲に作品の中に取り込んでいった。メディアアーティストが羨ましいなと思ったのは、まだ実用性が十分明らかでない段階だったAI技術でも、「アート作品」には組み込めるということだった。

僕は研究者でもアーティストでもない、ただのビジネスマンだったので、AI開発用のPCを企画し、ドスパラでお馴染みのサードウェーブさんと組んで売りまくったり、さくらインターネットさんにGPUコンピューティングの企画を持ち込んだりした。

そう言う意味では、StableDiffusionが世界を席巻し、ChatGPTに素人の人々が衝撃を受ける遥か昔から、僕らは自分たちの仕事にAIを取り入れようとしてきたという共通点がある。まあほかに共通点があるとすればHHKBを使ってることくらいだが。まあそういう観点から語るべきことはそれなりにあるんだろう。どう言う話になるのかまったくわからんが。

本書は、そう言う意味ではとにかく、暦本先生、落合くんの話が本当に「普通の人」でもわかるようにまとめられている非常に貴重な本であり、僕は一気に読めてしまった。ホッとした。

内容も、仏教とか、西洋哲学とか、そういうものをアナロジーにしつつ、結局文明が発達すると人間はバカになっていくが、バカになっても幸せならいいんじゃないかという話になっていって、最後は落合くんが家で飼ってるネコのように、自動給餌機で飯を食い、自動トイレで自動的に洗浄され、生きるのに何不自由なくなって、ただ優しい人とか一緒にいて楽しい人だけがバカで楽しく生き残っていくという、ネコ化した人類社会を能天気に語っていた。それはそれで、非常にポジティブな捉え方だし、面白いと思う。ビジネスマンがそこで何をするのかは全く不明だが、もしかしたらネコ化社会ではビジネスマンは消滅しているかもしれない。

しかし気になっているのは、この対談が収録されたソニーCSL京都研究所にある茶室「寂隠」を何と読むのかわからず、これが冒頭にあるためにしばらく手が止まるという怪現象に悩まされたことだ。読み仮名を振るくらいの優しさはあってもいいのではないか。なんで「読めねーよ」というクレームを編集者も誰も入れなかったのか。絶望的なのは、脚注が振ってあるからてっきり読み方が書いてあるかと思ったら、脚注にも読み方が書いてないのである。編集者なんかやめちまえ。ここまで書いて、もしかして「じゃくいん(ジャックインにひっかけて)」なのかなと思ったけど、そんな優しさは発揮してやらん。

イベント前にゲラを貸してくれなかったことでもともと印象は最悪だが、ルビを降らなかったことでさらに最悪の下を行く印象だが、この企画を成功させたあたり、この本の編集者はきっと優秀なのだろう。しかしAIが発達すればこの編集者の仕事はAIが代替し、ただの「感じが悪い人間」としてネコ化したポストAI社会では生存権を脅かされないまでも幸福な共同体からは切り離される呪いをかけておく。

ただ、この本は読む価値がある。