人類はいつまでWebページを書くのだろうか
基本的に滅多なことでは二日酔いにならない。
二日酔いで頭痛がしたりということもない。単に寝不足か、寝違えて翌日調子の悪いことはある。
ごくたまに、翌日まで酒が残っていて頭痛がしてくるような日は、朝から自己嫌悪と後悔で一杯になる。
生まれてきてごめんなさい。
でも本当に不思議なことに、そういうときに限って、とても大事なことを思いつく。
その日の朝、不意に浮かんできた言葉はこうだった。
「いったい、人類はいつまでWebページを書くのだろうか」
Webページを書く方法は年々変化している。大昔は気楽なもんだった。
わずかなタグを覚えて、適当なプロバイダーと契約すれば、誰でもWebページを公開できた。
あの頃はHTMLを書くということがスキルと見なされていた。やたらと高価なWebページ製作業者が乱立し、ちょっと覚えれば大学生でもいい小遣い稼ぎになった。
今はどうか。HtMLを書くことをスキルだと主張するのは難しくなっている一方で、「ちゃんとした」Webサイトを作るのはおそろしくヤヤコシく、難しくなった。SSL証明書、リキッドデザイン、フレームワーク、サーバーレス、攻撃に対するセキュリティ対策、エトセトラ、エトセトラ。
僕でも自分自身が「ちゃんとした」今時のWebサイトを作る自信はない。ちゃんとやらないと恥をかくし、ちゃんとやるには勉強しなければならない。
その一方で、実はWebサイトを作る会社というのは減少傾向にある。
いわゆるWordPress屋さんにはプログラマーがほとんどいない。ゼロからWebサービスの制作を請け負う会社も昔に比べれば少ない。
なぜならば、Webサービスで一発当てるというサクセスストーリーが昔話になりつつあるからだ。
今時の新サービスというのはアプリ発祥であり、Webサービスとは作り方がなにもかも違うからだ。
実際の中身はそう大きく変わらないかもしれないが、本質的な興味や考え方が異なる。
たとえば、ヤフオクとメルカリの関係性である。
二つとも根本的な目的は同じはずだが、全く異なったものに見える。
かつては自分のドメインを持ってページを運営するというのがある種の嗜みだった。
でもサーバーの運営は更なるややこしさを産む。
セキュリティーホールが見つかる度にパッチを当てなきゃならないし、少しサイトが時代遅れになるといろんな公的団体から是正勧告を出される。
こんな面倒なら、自分でサーバーを管理するのはデメリットのほうが多い。
結果、言いたいことを言いたいだけの場合はnoteにマガジンを作る方が簡単だ。
サーバーの維持管理は、誰か賢くてイケてる人がやってくれるはずだ。
誰がやってるのか知らないが、その面倒ごとを解決するのが僕じゃないことは確かだ。それが大事なことだ。
さて、僕はWebページを書くという目的でnoteを始めたはずだが、実際にはWebで書いているわけではない。
この文章は、実際にはソファに寝そべりながら、GalaxyFoldで、noteアプリを使って書いている。
実はこの文章を読んでる人も、Webブラウザではなくて、noteアプリで読んでいるかもしれない。
では果たしてこれはWebページを書いてるといえるのだろうか。アプリの機能として、掲示板に書き込んでいるのとなにも変わらないのではないだろうか。
僕からすれば、それは見方の問題であってどちらとも言える。
たとえば、僕がnoteに投稿したり、FacebookやTwitterにつぶやきを投稿したり、インスタやTikTokに動画を投稿したり、メルカリに出品したり、LINEで誰かにメッセージを送ったりするとき、どの場合でも、実際には同じことが起きている。
つまり、スマートフォンからサーバーにデータが送信され、サーバーはデータベースにそれを格納する。他のスマートフォンからアクセスがあると、サーバーは適切と思われるデータをスマホに送り返す。そのデータとは、二日酔い明けの戯れ言や、不要になった鞄類の出品や、デートのお誘いだったりする。
昔少しはやった、フルスタックエンジニアならば、様々なレイヤーでこの錯覚を認識できるだろう。たとえば誤り訂正や、圧縮アルゴリズム、周波数変調、符号分割多元接続、ルーティング、二進数、論理回路、まあ何でもいい。
現象はどのようにも解釈しうる。アラン・ケイがユーザーインターフェースの前にユーザーイリュージョンの重要性を説いたのはまことに慧眼だった。ああ、僕はなんとバカだったのだ。彼はずっと前から僕の目の前に答えを用意してくれていたのだ。彼に会う前に、彼が読んでいそうな論文や彼が書いた論文は全部原文で読んでおくべきだった。なにも知らずに、わかった気になっていたのだ。
どれだけ精巧かつ正確に訳す努力を費やそうとも、翻訳とは本質的に二次創作なので、原文を読まなければ本当のことはなにもわからない。
文章を読むというのは根本的に難しいことなのだ。たとえ自分の母語であろうと、書かれた意図を正確に掴むことは難しい。結局のところ、あらゆる言葉は、伝言ゲームのように誤解されながら広まっていく。
要は、Twitterの呟きも、noteの投稿も、mercariの出品もTikTokの動画も、それぞれ技術的には全く同じものに異なる解釈(イリュージョン)を与えたものにすぎない。NetflixもAmazonもYouTubeもGoogleも、あらゆるWebサービスは同じだ。コミュニケーションに意図的な非対称性をつくり、ミスディレクションを駆使してイリュージョンを作り出す。
我々はこれからも何か新しいことをし続けていくだろう。しかしその新しさは幻想(イリュージョン)にすぎない。
本質的には我々は常にデータを送信し、どこかに格納し、必要に応じて掲示するという手順は変わらない。
このことが何を意味するかと言えば、Webは再発明されうるということだ。
実際のところ、Webは何度も再発明され続けてきた。最初のブラウザ戦争の頃と今では、同じ名前でよばれているが技術的には全く別物である。
i-modeは実際にはWebだが、そう見えないように周到に再発明された。Flashもそう。それが去ると、HTML5の時代がやってきた。次はWebAssemblyか。
アプリも、本質的にはWebの再発明にすぎない。Webとアプリの違いは、HTML5とWebAssemblyの違いほども違わないだろう。
本質的なイリュージョンの進化を後押しするのは、結局のところテクノロジーの進歩である。バッテリー、アルミニウム、CPU、メモリ、通信方式、ストレージ、カメラ、有機EL、マイクロLED。こうしたとるに足らないように見える進化の連続が、結果的に同じように見えても本質的には別物に進化させ、エンドユーザーが気づかないうちに新しい変化を生み出す。このとき本質的な進化に注意を払っておくか、もしくはそれがすっかり浸透して人々が深く考えるのを忘れてしまったとき、再発明がおきる。
ジョブズの21世紀最大の功績は、再発明(Reinvent)をポジティブな言葉に変えたことだろう。
今の人類で、この言葉を否定できる人はもはやいない。
再発明とは新しいイリュージョンの発見であり、それこそがソフトウェアの持つ本質的な力の根源、アルセーヌ ・ルパンの奇岩城なのだ。
それを堂々と、恥ずかしげもなく実行できる組織だけがソフトウェアの勝者になれることをジョブズは体現したのである。
さて、では我々はどうするか