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デザインの話

デザインという言葉がある。これには色々な意味があって、「design」の「de」とは、ラテン語で「下に」「内から外へ」「遠ざかって」などの意味があるそうだ。signの語源であるsignumは「印」「伝えるもの」といった意味がある。

転じて、「内から外へ伝えるもの」「天から降りてきた印」といった意味になるのだと考えられる。

僕は仕事柄、デザイナーと呼ばれる人たちとの付き合いが色々ある。デザイナーとは呼ばれなくても実際にはデザインの仕事をしている人との付き合いもある。

ただ一つだけ確かなのは、どんな超一流のデザイナーに依頼したとしても、「出てきたデザインは発注者の能力を超えない」ということだ。

今でこそAppleといえばオシャレなものを作ると思われているが、最初の最初、スティーブ・ジョブズにデザインの感覚は皆無だった。

ジョブズは最初、コンピュータを箱に入れて売ることさえ思いつかず、剥き出しの基盤だけを売っていた。

それを買った人たちは、木で箱を作ってそこにAppleIを入れて使っていた。ググれば山ほど写真が出てくる。

それを馬鹿にされたジョブズはコンプレックスの塊となって、当代一流のデザイン会社に依頼することにした。フロッグデザインである。

ジョブズがフロッグデザインを選んだ理由は、非常に単純明快だ。ソニーのウォークマンを手掛けていたからだ。当時のジョブズにとって、デザイン力の高い会社といえばソニーだった。ソニーが使ってるデザイン会社に頼めばソニーのようなデザインになるに違いないと考えたのだ。

この考えは、当時は正しかった。

フロッグデザインは、Appleのためのデザイン言語を考えだし、世界で最も美しいコンピュータ、AppleIIをデザインした。

ジョブズはフロッグデザインと関わることで自分の中のデザインセンスを磨いていったと考えられる。

同時にジョブズには独自の美学があった。ポルシェとフォルクスワーゲンのデザインを愛していた。Macintoshを作るとき、ジョブズは「フェラーリのようじゃなく、ポルシェのようじゃないといけない」と語った。GMのようなコンピュータは最初から眼中になかった。

「フェラーリではなくポルシェのようなデザイン」というのは、非常に象徴的だ。フェラーリやランボルギーニはデザインを外注したが、ポルシェは外注してなかった。ポルシェの創始者であり、ドイツ国民の乗り物フォルクス・ワーゲンの設計者であったフェルディナント・ポルシェは、「形態フォルム機能ファンクションに従う」という哲学を持っていた。

デザインが機能に従うのだから、デザイナーは外部に置くよりも社内で抱えた方がいい。自動車の設計と外観のデザインは一体であるという哲学である。ところで、日本語で設計と呼ばれる仕事は、英語ではdesignデザインという。この二つは同じ言葉で説明されるのだ。フェルディナント・ポルシェは当時世界で最も卓越した設計者デザイナーだった。

ジョブズが復帰後、社内インハウスのデザイナーに拘ったのは、この哲学の影響があったと思われる。

デザインというのは、ただ格好良く見えればいいのではない。そこには哲学が必要なのだ。

デザインの持つ機能は、「見やすい」「分かりやすい」「使いやすい」というだけではない。「信頼できそう」「安心できる」「親しみやすい」「愛くるしい」といった情報を付与する。語源の通り、「メッセージを伝える」という役割がデザインにはある。広告業界ではこれを「コミュニケーション」と呼ぶ。

僕はある時期、「コミュニケーション・アーキテクト」と名乗っていた。今でも自分の仕事は変わってないと思っている。

ソフトウェアの設計デザイン建築物アーキテクチャの設計である。僕はそれを使う人間を含めた、コミュニケーションのアーキテクチャを設計することを生業としている。

AIとてソフトウェアの構成物コンポーネントにすぎないのだから、それにまつわる人々を含めたコミュニケーションの設計デザインとは、例えば配信番組やイベントやWebサービスという形で表層に現れる。

デザインには正解がない。それが厄介なところだ。しかし正解はないが間違いはある。

間違ったデザインはある程度までは理屈で説明できる。
例えば「文字が読めない」とか、「間違ったことが書いてある」とか「誤解を招く」といったことだ。

クライアントがいる場合は、クライアントの価値を傷つけるようなデザインは明らかに間違っている。クライアントのメッセージを伝えるべき人々にきちんと伝えることができるかどうか。それがコミュニケーション構造アーキテクチャによって決まる。

昨日、酒場で「デザイナーです」と名乗る老婆と会った。
「仕事をください」と言われた。冗談でも初対面の人にそんなことを言ってほしくない。

僕がデザイナーを決めるのにどれほどの注意を払っているのか、その人は知りもしない。だがコミュニケーション設計者アーキテクトにとって、デザイナーは自分の無二の相棒であり、分身のようなものだ。

そろそろオフィスが必要だ、と思うようになって、最近物件をあちこち探している。

先日内見に行ったリノベーション物件は、酷かった。
明らかにデザイナーが張り切ってる。それはわかる。豪華な共用スペースにはオシャレな本が綺麗に色分けされて並んでいた。

それを見て僕はここには入居できないと思った。

それは読むための本ではなく、置物としての本だったからだ。
素晴らしい本は、ただ置かれているだけでもその空間を盛り上げるのに一役買う効果がある。逆にいえば、置かれてる本の種類と数で、その空間の知性が決まってしまう。さらにエレベータや床にデカデカと書かれた巨大な文字による意味のない英文。めまいがしそうだ。これは「我々は英語を理解しません」というメッセージなのだ。「読ませる気もなければ読む気もない」ということである。デザインが入居者や来客を馬鹿にしているのである。

デザインに求めるのは「なぜ」という問いとその答えだ。「なぜ」の答えが「表紙の色が綺麗だから」ではダメなのである。

どんなに冴えないデザインにも理由は必要だ。
理由付けられていることがデザインを、ひいてはコミュニケーションを強くする。

「デザインは人の好みだ」という人もいる。それはコンシューマ製品と消費者コンシューマという関係性においてはそうだろう。それはデザインを作る側ではなく、消費する側の考え方だ。

作り手から見たら、デザインに好みは関係ない。間違ったメッセージがあるだけだ。

作り手にとって、デザインは最初のコミュニケーションである。
その最初の印象で相手がこちらのメッセージをどう受けるかが決まる。

イベントなら登壇者は誰なのか、司会は誰なのか、審査員は誰で、どのように審査されるのか、本ならタイトルは何か、読者はどんな人で、何を伝えたいか、

およそ世の中の製品やサービスにデザインの入り込む余地がないものはない。どこまで注意を払えるか、そのためのコストを捻出できるかという違いでしかない。これらは全てコミュニケーション・アーキテクトの仕事の範疇と言える。

スティーブ・ジョブズがそのデザインに憧れ続けたソニーの、トップデザイナーだった後藤禎祐は、最初のVAIOをデザインする時、特別な銀色を作った。

VAIOでしか使わない銀色を、わざわざ「発明」したのである。それが決定的にVAIOを新しいものに印象付けた。

VAIOのデザインは、それから後に登場するコンピュータのデザインを全て変えた。もちろんAppleは翌年からVAIOの模倣を始めた。まずはロゴマークをひっくり返すところから。現在の世界中のノートPCのロゴマークの位置を決めたのはVAIOのデザインである。それくらい、デザインには力があり、メッセージがある。

その重みというのは生半なまなかなものではない。

デザインを大切にしようと思えば思うほど、軽々しくデザインを頼めない。