食わずに死ねるか! 栃尾"揚げたて"油揚げ
灯台もと暗しという言葉がある。
遠くを照らす灯台も、実は根本は照らし出せずに暗いままであることを意味した言葉だが、まさしく酒乱道においても、この「灯台もと暗し」の事案を体験したことがあったので綴っておこうと思う。
世界を放浪している吾輩だが、故郷の食べ物で自慢できるものはコメと日本酒くらいしかないのが正直なところである。
その他の名物は、持ってこれないか、わざわざ持ってくるほどでもないか、いっそ誰かをわざわざ地元まで連れて行く必要もないようなものばかりである。
高校時代は県内のあらゆるところから生徒が集められる、全県一円の学校だったためか、いろいろと新潟の中でも地域色が多彩だった。
その中で、地元、長岡の隣町、栃尾に住んでるやつがときたま持ってくる「油揚げ」が異常に美味いことを、僕は社会人になってしばらくするまで忘れていた。
あるとき、本郷三丁目の「たまや」という店で久しぶりにみつけた「栃尾揚げ」という言葉に「おお、久しぶりに食べてみるか」と思ってオーダーすると、これが滅法美味い。
特に納豆も好きな吾輩としては、栃尾揚げを半分に切ったものに納豆を挟んだものが至高である。異論は認める。
そんなわけで、会社が引っ越したあとも時たま本郷三丁目へでかけては、「たまや」で栃尾揚げをオーダーするということを繰り返していた。
そんな話を長岡市役所の人にすると、「じゃああれですか、もしかして揚げたてって食べたことありますか?」と聞かれた。
なんじゃらほい。
たしかに揚げ物だから、揚げたてと揚げたてじゃないものがあるだろう。それは当然じゃないか。しかしそれがそんなに違うものか?
「なんでも、栃尾まで行けば、揚げたてで出してくれる店がいくつかあるそうなんですよ。それはもう普通にスーパーに売ってる(※長岡周辺のスーパーには普通に売ってる)栃尾の油揚げとは完全に別物という話で・・・いえね、私も食べたことはないんですが、それはもう凄い評判で・・・」
食べたことがないのにこの褒めようである。
たしかに、マクドナルドのフライドポテトも揚げたてのほうが美味い。作り置きしたのは、なんだかシナシナしてて残念な気分になることも少なくない。
けどなー、本当に油揚げって揚げたては別物と呼べるほど美味いのだろうか。
うーむ・・・
そう考えていくと吾輩は突如気を失い、65536秒後、なぜかレンタカーを駆って未開の地、栃尾へと向かっていたのだった。
「そんなに美味いものが、こんな地元にあるはずがあるだろうか、いやない(反実仮想)」
と思いながらも、初めて抜ける栃尾へと続くトンネルを抜けると、まるでひと繋ぎの財宝(ワンピース)を探しに来た海賊のような気分になり、「おれは海賊だー!」と叫んだ。助手席の後藤もなぜだか盛り上がっている。
上杉謙信の信奉していたという、毘沙門天の「毘」のマークの油揚げ屋が神々しく現れ、喜び勇んで車を横付けすると、「マツコ・デラックスも絶賛した」という話を聞いた。
しかしその日いたお母さんは「でもねー、この時間はもうみんな作り終わっちゃってるから、道の駅にいかないと揚げたてはないのよ」と言うので、とりあえずお土産用の油揚げを書いながらも、吾輩は道の駅へと向かったのである。
あとで知ったのだが、この毘沙門天の「毘」を掲げる栃尾の老舗油揚げ屋さんこそ、両肩に栃尾の油揚げを乗せたご当地ヒーロー、「トチオンガーセブン」の本拠地であった。この時気づかなかったのは不覚としかいいようがない。
そんなわけで、果たして夕方まで揚げたてを食べれるという栃尾の道の駅へとコマを進めると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。
おいマジか
こんな平日の真っ昼間から、酒もないのに、油揚げに行列ができてるってどういうことなんだよ
栃尾は決して観光地ではない。いや、そんなことを言ったら怒られるかもしれないが、観光地というイメージはぜんぜんない。
なにしろ隣町で18年育った僕が、一度も足を踏み入れたことのない、いわば秘境、忍者の里みたいな場所である。
なのにこれだけの行列ができているということは、ほとんどすべてのお客さんが地元民だと考えることができるだろう。
そして、平日の真っ昼間に油揚げだけをこれだけの人が買い求めに来ているというのはものすごい異常事態だ。なぜなら、揚げたてをわざわざ買いに来ている以上、基本的にはテイクアウトするというよりはその場で食べるのである(事実、ほとんどの人がその場で食べていた)。その場で食べるということは、決して夕飯のお買い物に来たわけではないということだ。
すなわち、ここは東京でいえば、いわば有閑マダム、いわゆるひとつのシロガネーゼとか港区婦人とかが集結する千疋屋か資生堂パーラーか。つまり地元の「テッパンの美味しいものが食べられる社交場」と化しているということである。
おそろしい。
人類はなんという恐ろしい食い物を生み出していたのだろうか。
ヘブライ大学のユヴァル・ハラリ教授によれば、われわれ現生人類であるホモ・サピエンス・サピエンスが、その他の人類、たとえばホモ・エレクトゥスなどに比べてどのようにサピエンス(賢さ)を持っていたのかと言えば、「虚構を信じる能力」だったという。
その「虚構」とは、家族であり、村であり、行政であり、政治であり、経済であり、企業であり国家であった。それらのものは、実際に触れることができるという意味での有形(タンジブル)ではないが、そこに「在る」という点に於いては圧倒的な現実として、単に「虚構」というものにとどまらずに存在している。
たとえば、人類が数万年の共進化の果てに作り出したのが資本主義だとすれば、この眼前に広がる光景は、見事にそれを否定してみせる。
つまりただ単純に「美味い」という、圧倒的な有形物(タンジブル・アトム)がそこに「在る」だけで、人はいとも簡単に数万年かけて作り上げてきた虚構を忘れることができるのである。
その圧倒的な説得力は、「プツプツ」と警戒な音を立てながら見事に揚げられていく油揚げを、購入のまさにその直前に見せつけられると、単なる大豆だったこの物体に、人は食欲を超えた何らかの欲求が刺激される。たかが大豆をどうにかやって油で揚げただけのものに、千年に一人のアイドルや、実の子供以上に狂おしく愛おしい感情を生じさせる強烈な魔力に昇華するのである。
結果的に、全パターンを注文してしまう。絶対にこんなに食べれるはずもないのに。
左から、キムチ味、ネギ鰹節味、プレーンである。
このうちプレーンが最も純粋という意味で尊い。
醤油を掛けても、つるんと逃げてしまう。
そして一口噛みしめるたびに「ザクッ」「ザクッ」という音と裏腹に感じるあまりの柔らかさ(豆腐だし)に脳がどうにかしてしまうのである。
この感覚は、決してスーパーや居酒屋の、つまり時間の経ってしまった油揚げでは決して経験することができない。
ああ、なぜおれは雁屋哲ではないのか!
もしもおれが雁屋哲なら!
栃尾の油揚げだけで1クール書けるのに!
そんなわけで、油揚げ。
地味なようだが、一応、成城石井の一部店舗でも買えるらしい。
食べる際には、まずレンジで軽くチンしてからフライパンで両面を軽く炙ること。
それから、青ネギとか鰹節とか、場合によっては納豆かねぎ味噌を挟んで食べてみていただきたい。
これを楽しむことができたならば、たぶん栃尾にいって実際に揚げたての油揚げを食べることは、あなたの星3つ(そこへ行くことが旅の目的になる)に成りうるだろう。