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なぜ三角関数擁護派は三角関数の実用例をすぐに思いつかないのか

昨日は月に一度のラジオのレギュラー放送で、テーマは「シン・ウルトラマンと量子力学と三角関数」だった。

シン・ウルトラマンはシン・ゴジラよりも現代物理学の用語が散りばめられていて、メジャーなフィクションの世界に初めてモダンな宇宙論が導入された作品として意義深い。

ネタバレになるので詳しくは語らないが、既に公開されている情報としては、Hey!Say!JUMPの有岡くん扮する滝くんの職業は「非粒子物理学者」であるとされる。

非粒子物理学は、2007年に生まれた非常に新しい理論物理学の一つで、なぜ「シン・ウルトラマン」の禍特対に非粒子物理学者がいるのかといえば、非粒子物理学が扱う対象が、質量がほぼゼロであり、扱う対象の大きさ(スケール)を変えても性質が変化しない物質がありうるだろうという予測から生まれている。まだそのような非粒子は発見されていないが、「スケールを変えても性質が変化しない非粒子の予測」に基づくあたりが、「シン・ウルトラマン」に採用された理由の一つではないかと考えるのは考えすぎだろうか(ま、どうでもいい)。

「三角関数なんか勉強するのは時間の無駄だ」と主張する人が定期的に現れるが、それは別に三角関数以外にも当てはまると思う。

「古文漢文なんか勉強するのは時間の無駄だ」と言われればその通りかもしれないし、「地理なんか勉強するのは時間の無駄だ」と言われればその通りかもしれない。

僕はいまだに県庁所在地の場所を全部言える自信がない。
仮に言えたとして、一体それが何の役に立つのか。

県庁所在地を全部言える人は、アメリカ合衆国の州の名前も全部言えるのだろうか。それぞれの州の州都の場所は?

するとたとえば、「県庁所在地を知っていれば、初対面の人の出身地を聞いて話を盛り上げることができる」という反論が出てくるかもしれない。

しかし、本当にそうか?

たとえば、静岡県の県庁所在地が静岡市なのは自明だが、静岡県は静岡市を中心とするエリア以外にも、浜松を中心とするエリアや、沼津を中心とするエリアは全く違うと、静岡の人は言う。

静岡のことはよくわからないので自分がよく知ってる新潟と長岡の話をするが、新潟県の県庁所在地は新潟市であることは自明であるが、かといって、県外の人に「清水さんって新潟の人なんですね」と言われると、少しだけイラッとする感情が生まれる。

なぜかというと、新潟県が新潟県である理由は、戊辰戦争で敗北したからである。
越後長岡藩にとっての直轄地の一つであった新潟は、「明治維新」という名のテロリズムが奪って行ったものの一つで、要は150年前はどちらかというと馬鹿にされていた土地の名前を県の名前にすることで、長岡藩の誇りと名誉を奪おうという非常に姑息な考え方でつけられた屈辱的な名前である。まあその辺の顛末については、来月公開の映画「峠 最後のサムライ」を見てほしい

もちろん、長岡の人も普段はそんなことを考えたりしないが、県外の人に無邪気に「新潟の人ですよね」と言われると、生まれてもない時代の記憶が蘇ってきて悶絶したくなるのだ。

つまり、県庁所在地など覚えたところでその県のことを理解したとは到底言えないし、それで話しが膨らむというのはこじつけにすぎない。

さて、話を三角関数に戻そう。

「三角関数など学ぶ必要はない」という主張は、僕の「県庁所在地など覚える必要はない」という主張とほぼ同じに聞こえる。

インターネット以前の原始時代ならともかく、ググれば100ミリ秒で知識が検索できる時代に県庁所在地など暗記するのは時間の無駄だ、という主張をしているわけだ。

ただ、単に「三角関数など無意味だ」というのは、「モーツァルトなど無意味だ」とか、「モナリザなんかいらない」とか、「金閣寺など無意味だ」とか、もっと言えば「コンピュータなんかいらない」というのに近い。

「三角関数」は単なるパズルやクイズの問題に使われる程度のつまらないものではなく、人類が生み出した一つの芸術であり、そして同時にコンピュータ並みに有用な道具なのである。

つまり、三角関数を使う人たちにとっては、「三角関数の否定」は人類の叡智の否定に等しく聞こえてしまう。

三角関数に比べれば、(三角関数はいらないと主張したある弁護士の顔を頭に思い浮かべると)法律の知識や金融の知識など、所詮は近代の人間が付け焼き刃で作った妄言にすぎない。その証拠に法律も金融も時代と共にコロコロ変わるし、その運用は裁判ごとに変化する。しかし三角関数は数千年の時を経て不変であるどころか、近代に突入して益々その有用性が強調されているのである。

要は「三角関数はいらない」と主張する人たちは、別の言葉で言えば「私は三角関数の有用性も美しさも全く理解しておりません」と言ってるだけで、「モーツァルトの良さもモナリザの美しさもわかりません」と言ってるのとあまり変わらないのだ。

そして三角関数を擁護する人たち(僕も含めて)は、「何を言ってるんだ、モーツァルトは素晴らしいだろ!」と脊椎反射的に反応することしかできないのは、まあちょっと、どっちもどっちというか、まあちょっと落ち着け、と思ったりするのである。

ただ、名画や名曲と違い、三角関数は単なる芸術ではなく実用的な道具でもあるため、「こういう時に三角関数を使うと便利/三角関数がないとできないんだよ」というわかりやすい例え話が、すぐに出てこない。

なぜすぐに出てこないかというと、あまりにも生活に密着しているからだ。

大学に進学したばかりの頃、高校を一緒に卒業した友人がお茶の水大学の課題でPascalのプログラムを書かなければならないから教えてくれと言われたことがあった。彼女は文化系だったが、当時のお茶大ではプログラミングの授業があったようだ。

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