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空間と領域のはざまで

1. ポートフォリオ

  • -個人-

- mtka担当作 -

2. 都市をこえて - 領域のなかの建築

はたして「都市」という概念はこれからも存続していくのだろうか。場所における伝統性・固有性に対して、現在の拡張・錯乱しつづける空間のかたちの組織化をどう捉えるべきなのだろうか。
仮にそれを「領域」と名付けてみる。領域の上では都市における中心という概念は消失し、むしろあらゆるものを包括したときに際立つ境界が顕在化する。

翻ってみると、「建築」という行為もまた壁を建て、屋根を懸け、空間を隔てる境界の役割を果たしているという意味で領域と相関関係にある。そしてそこから穴を穿ち、周辺との関係をつくりだしていく。

そうしたひとつひとつの建築が連なってつくりだす都市・風景という事象に立ち向かうために、歴史的時間を扱いながら、現在をいきるための空間を設計していく。「領域という文脈のなかの、境界としての建築」というアイデアをもって、その課題に応えていこうと思う。

3. ウチとソト - 都市なしのタイポロジー

「領域のなかの建築」は、境界が顕在化する。自分の家をウチと呼ぶように、内側(インテリア)と外側(エクステリア)という側面が、重要になっていく。これは私的空間(プライベート)と公的空間(パブリック)と呼んでもよい。

私的空間も公的空間も、「都市」がなければ定義しづらい。つまり、空間もまた領域化していく。タイポロジーもまた、「都市」を前提にしている。こうした問題 - 都市なき時代の空間のタイポロジー - にもアイデアを必要としている。

ただし注意しなければいけないのは、ウチソトが明快に、分離していればよいということではない。ウチに内在するアイデアと、ソトに外在するコンテクストを、どう重ね合わせるかということだ。

4. アイデアとコンテクスト - つくることとかんがえること

良い空間に出会ったとき、いつも思い浮かべてしまうのは、その空間が、別のプログラムによって占拠されているさまだ。グッゲンハイム美術館は、市場に成りうる。あるいはキンベル美術館は、コートヤード・ハウスに成りうる。空間の質は、その機能に依存しない、ある種のユニバーサリティを有している。

あるいは、その空間が別の場所にあったらどうか。ヴェローナの広場が東京にあったら。あるいは、レマン湖がそこになかったら。

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- そこになかったものを、そっとおいてみる図 -

奇妙なことだが、これがアイデアである。

「建築家として一つの住宅の依頼を受けて、それを設計しようとする瞬間に、たとえば荻の旧武家屋敷の夕方の通りで見た、あるいは平泉の輝くような午後の逆光の中の通りで見た現象的な空間のイメージを住宅の中にぶち込むというようなことを私はふと考えることがあります。しかし冷静に考えればこれは相当奇妙なことなのです。」

多木浩二『建築家・篠原一男 - 幾何学的想像力』青土社、2007年

コンテクストは、


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