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【フォーム・スケール・アナロジー】ステートメント

1. フォーム

「図と地」という言葉があるように、かたちとは、それ自体のかたちでもあり、それ自体が囲い込む空間のかたちでもあり、その両方の関係でもある。建築を図面としたり、都市を地図としても、その関係は変わらない。
われわれはそれらを意識的/無意識的に認識しながら、日々暮らしている。

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2. スケール

空間を記述する際に、尺度があらわれる。
1/10の図面と1/2000の図面ではその描かれる対象は変わってくるし、現実の空間体験とその読解は異なるものとなる。しかしこうした図面や模型といったリプレゼンテーションの読み取りに、尺度はかならずしも必要だろうか?
もし尺度してのスケールを外すことができたとき、描かれる対象は限定されずに、意識的/無意識的にあらわれる「おおきさ」のみが残ることになる。

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3. アナロジー

現実の背後の豊かなイマジネーションの世界に気づくには、アナロジーといった思考法が必要かもしれない。たとえば「おおきさ」はことなれど、かたちを共有するもの同士の関係をアナロジーは築くことができる。
イマジネーションは個人からうまれる。個人と他者をつなぐのもまたアナロジーだとすれば、一見自律したもの(者-物)同士の他律性を、発見していくことができるのではないか。

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A. 主観と客観にかかる橋

客観的に物事をみているというとき、我々はそれを言語で説明できると言えるかもしれない。反対に主観的というとき、それは言葉では表現できない感覚的、もしくは恣意的なものであることが多い。それでは果たして、主観的な価値観を客観的で共有可能な事象に昇華させることは可能であろうか。マルコポーロが見知らぬ街を、故郷であるヴェネチアの類似としてしか見れなかったように、主観的なものを元型としてより客観的な事象につなげる、アナロジカルな思考がそれを担えるのではないだろうか。この思考法は客観から主観への飛躍も助けるだろう。 アナロジーとはそんな、主観と客観を行き来するための橋のようなものにはならないだろうか。

“ 他処なる場所は陰画にして写し出す鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます。”
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』より

B. 2つのイメージの重なり

一見したところ、全く異なった2つのイメージが重なるとはどういうことだろうか? それはイメージそれ自体の重なりかもしれないし、イメージが共有している時間、場所、かたちなどによる重なりかもしれない。異なるイメージでも共有する「なにか」を掴めばそこに関係を見いだせるかもしれない。 

“ 1- 積極的に現された図(たとえば《a》とする)に対して、(図の周囲の)ネガティブな地としての領域 (《非a》とする)こそを充実したものとして扱うこと。
2- この図《a》を描くと発生する地の領域《非a》と図《b》を描くと発生する地の領域《非b》を同じ空間であるとは前提しない。
3- 図ではなく地である《非a》《非b》《非c》という異なる領域自体を重ね合わせること。”
岡崎乾二郎 『抽象の力-現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜』より

C. つなぐ技術としてのアナロジー

15世紀から18世紀にかけてヨーロッパでは、驚異の部屋といわれる珍品を集める博物陳列室が作られた。部屋では、自然物も人工物も珍しいものなら分野を隔てず集められ、その対象も珊瑚や石英を加工したアクセサリーなど古今東西からのものであった。それらはすべて収集家の主観により集められ部屋が一つの小宇宙を形成していた。古来よりアナロジーは、愛と欲望、既知と未知、近と遠、はかないものと絶対的なものをつなぐ、見るもの主導の照応システムであった。差異でものを見る現代において、再びアナロジーという思考法を考え直すことで、過去からの断片と、現在のバラバラな風景の間に関係を結ぶことができないだろうか。 

“ アナロジー化のいいところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代の様々なコンテクストさえ我々の世界の一部にしてくれる点である。過去のこと、遠いもの、異なるものを近似の(proximateな)ものとすることによってのみ、それは我々に理解できるようになる。”
バーバラ・M・スタフォード 『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』より


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