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「ジャイアント」という質について

インテリアの可能性

インテリアやしつらえには、あくまで建築に従属しているようなイメージがあるけども、「うつわ」をつくらずして空間に介入するという意味で、建築よりもより自由な側面がある。

都市はジェネリックに、建築はバナールでブルータルになって行くときに、インテリアと風景が何を目指すのか、とても興味がある。
一方の極点にマニエリスティックな志向があって、もう一方の極点に荒地、テランヴァーグのような志向がるように、今は感じる。

そもそも建築も都市も見えなくなっていったときに、インテリアと風景がそのまま接続されていくようなイメージも、描く事ができる。アーキズームのような。

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デッドエンド・モダニズム

最近、岸和郎の『デッドエンド・モダニズム』を読んだ。答えはないけど、東京にはない感性だな、と思った。京都の建築学生がこれをみんな読んでいるとすると、末恐ろしいな、とも。

ある種の忘れられつつある建築家に光をあてるような文章なのだけれども、潜在的建築家というか、建築未満の建築というか、そういうものへの関心、そちらの方がラディカルだよね、という意味で、ジャッドや倉俣史朗、もしくはヘルマン・チェックという建築家から学ぶことは、これからの東京について考えるときに大きな意味がありそうな予感がしている。

表情があって、味がない

「贅沢さ」というのは、インテリアにおけるひとつのキーワードになりそうだけれども、今日の贅沢さとは何なのか。

ユートピアではなく、現実の空間として、もしそれが存在するときには、素材が大きく空間に関与する気がする。
倉俣のように、扉・階段・抽斗といった室内風景のある種の図式性に注目しても良いが、表情と味についても考えてみたいし、スケールレスであること、ジャイアントであることが重要になってくる気がする。図式的であること。スケールを取り払うこと。このことに少なくとも倉俣とジャッドは気づいていた。

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チェックの方向性は彼らとは少し異なっていて、非常にマリエリスティック。ただ、インテリアが都市の延長になっているというところに大きな可能性がありそうだ。

東京とウィーンは似ている。


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