身勝手な悪態をつく

ここから先は、今まさに厳しい状況にある人や過去のつらい経験に苦しんでいる人と、現状それほどしんどくないという人とに分けて、この本について考えてみたい。

 まず前者からだが、エディの回顧録がアウシュヴィッツ経験者の手によるものにもかかわらず陰惨な印象を与えないのは、幸運にも、彼の身近にはいつも友人と家族がいたからだ。

 私が冒頭で「読む人によっては絶望するかもしれない」と書いたのは、このことによる。

 お互いに支えになれる家族も親友も恋人もおらず、苦しみを吐露・共有できる人がまったくいない人は、どうしたらいいのか。この本は何か救いになるのだろうか。「エディは恵まれている」と思うだけではないか。考えてしまう。

 いや、しかし、孤独な人こそ、この本を通じて苛酷で壮絶な日々を体験した(している)人間はほかにもいる、苦しんでいるのは自分だけではないのだと実感できる、と言いたい気持ちもある。もし現実世界では理解者が誰も近くにいなくても、本は読む人の心のそばにいてくれる。

私はどちらかと言えば前者だ。と書くと、少なくとも私を大切に思う人(家族など)からは哀しみの声が届きそうである。
以前よりそう思う気持ちは減ったとはいえ、やはり理解されない、身近に寄り添ってもらえない寂しさや絶望から完全に抜け出せてはいない。だからやはり、エディは恵まれていると自動的に感じた。思った。

「苦しんでいるのは自分だけではない」と思うことにどれだけの救済があるのかと疑問に思う。自分と同じように苦しんでいる人がいて、自分よりも苦しんでいる人がいて、だから何?
もちろんある程度の安堵と同志的な気持ちは湧くだろうが、私の根本的な寂しさや理解されないことの虚しさの解決には何らつながらない。まあ、そもそもその問題を完全解決・克服しようとすることに無理があるというのにやっと気づけたからもういいのだが…。それを大々的に問題視することこそ、苦しみの根源なのだ。

だがしかしね。ループするよ、わかってるけど。
やっぱり『根本的な寂しさや理解されないことの虚しさ』をまるきり無いことにはできないんだよ。だからこそ、こういう本が少しは支えに、慰めになるとこの人は言いたいのかもしれない。
はっきり言いたいが、それは他人だから言えることだ。当事者じゃないからそんな綺麗事が吐けるのだ。この世に、誰よりも自分のことを一番大事にしてくれる人がいないことの恐怖がお前にわかるのか?一緒に生きていこうと自発的に思ってくれる人がいないことの絶望がお前にわかるのか?自分に何が欠けているのか、何がいけないのか、正しい原因もわからないままパートナーを得られず、幸せそうに手を繋いで肩を抱かれて歩く2人連れを見てはイラつき、イラつくことに途方もない惨めさを感じる感覚がお前にわかるのか?

わからねぇだろ。

勝手に読んで勝手に悪態ついてるのは私です。こんなことくらいで大袈裟だなって思われるのも百も承知です。
それでもやっぱり、気持ちを吐き出さずにはいられない。本は人の代わりにはなれない。ゲームも、映画も、ドラマも小説も、人の代わりにはならないんだよ。

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