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「持参金」の資本論

労働価値説 マルクス

いっぱいのお運びでありがとうございます。相変わらず古いおしゃべりでございますが、だいたい、昔っから人はお金の話がすきですな。せやから今日は「持参金」っちゅう話を元にしながら、当時のお金の話の話なんかを交えてね。そもそもお金っちゅうもんがどういう物かっちゅうのを、話せたらいいなと思てます。

甲「おう、感心に起きてたなぁ、お前のこっちゃ、まだ寝てるやろうと思て案じながら来たんやが」

この話、最初は長屋暮らしの貧乏な若者、それと親の代からのなじみの奴さんに会うところから始まります。

乙「いや、いつもやったらまだ寝てまんのや。今日はどういう加減か。早うに目が覚めてしもたんで、まあええわい、たまには洒落に早起きしたれと思うて」

甲「洒落に早起きするやつがあるかいな。しかしまあまあ、朝早う起きるというのは、けっこうなこっちゃで、あぁ。昔からな、早起き三両宵寝は五両てなことを言うたあるが・・・」

ここで、最初に奴さん、お金の話を出して、次の話を切り出すきっかけにしとりますが、まあ、早起き三両っちゅうんは大げさにしても、早起きは三文の得っちゅう言葉は今でも伝わってます。起きてる時間が長い方が、仕事やらなんやらする時間が増えて得やっちゅうことですな。この仕事時間が長いほうが、お金が稼げるっちゅうのを始めに言い出したのが、マルクスっちゅう偉いひとで、これを「労働価値説」言います。

で、結局この奴さん、若者に貸した二十円を今日中に返して欲しいっちゅう話をしに来ます。

乙「・・・たまに早起きしたらろくなことあらへん。あんな二十円もう、返さいでもええんやと思てたんや、わしゃなあ、あれ。二十円どころか、逆さに振って五十銭銀貨もないのやで、それも今日中に、今日の晩、アー、できるわけないがな。・・・も一ぺん寝直したろ」

ここで五十銭銀貨がでてきたついでに、当時の通貨の話をしておくと、江戸時代はお金に、金貨、銀貨、銅貨があったわけですな。よう「東京の金づかい、大坂の銀づかい」と言われたりするように、場所によって使われるお金もまちまちで、それぞれが別々の市場になっておった。せやから金一両が銀何匁、みたいな話はあんまりできまへん、それぞれが変動相場になってました。あと当然やけどもこのお金全て金属ですな。つまり、お金っちゅう言葉通りのもんで、自体が希少価値のあるもんやから、お金そのものに価値があるっちゅう時代です。

これより古い鎌倉の時代、青砥藤綱っちゅう名裁判官が、十銭の小銭を川に落として、それを探すために五十銭の松明を灯したっちゅう話が残ってます。これを聞いて笑った人に「松明に使った五十銭は回りまわって天下のお金になるが、川に沈んだ十銭は亡くなると天下の損になる」っちゅうたそうです。その分銭がなくなるっちゅうことは、有限資源である銅がなくなるっちゅうことやったんですね。まだお金自体に価値がある頃の話。

持参金の話に戻ると、この困ってる若者のとこにこの噺のトリックスター、金物屋の佐吉っちゅう男が現れます。

佐「いやしかしな、人間朝早う起きるというのはええこっちゃで、昔の人がええことを言うたな、早起き三両、宵寝は五両」

乙「それもうあかんねん、それもう」

佐「何があかんねん」

乙「何があかんて、何が早起き三両や。昔の人の言うたこと当てにならん」

佐「そんなことあるかいな。古い人の言うたことにおろかはないというで」

乙「いやいや、昔の人の言うたこと当てになりまへんで、そうでんがな。死んだうちの、お婆んな、三日に小豆たいたら火事に遭わん言うてなぁ、今日はお三日や言うて必ず小豆たいた、あんなもん嘘だっせえ。座摩の前のぜんざい屋みてみなはれ、年がら年中小豆たかん日ないねん。続けざまに二へん火事だしたで、あれ。それからようあの、火遊びする子、寝小便するいいまっしゃろ。あれも嘘や。寝小便する子、鍛冶屋に奉公にやったら寝小便が治ったっちゅう話がある」

ここで佐吉は若者を「変な理屈」言うて笑うんやけども、実はこの理屈は全然変ではない、むしろ論理的には筋が通っとる。じつは若者は今まで信じられてきた情とか、迷信みたいなそれまでの意味づけを取っ払って、言葉によって理性的に物事を解釈していくという、これから起こる近代を先んじた立場で、それに対する金物屋は「古い人の言うたことにおろかはない」というような、昔の伝統を守っていく、それこそこの男を動かしてるのはまんま「情」の力やしな、そういう立場です。この金属を扱ってる「金物屋」がそのまま、それまでの二人の関係をつなげる役割をする。ちょうど、この二人の間を行き交う貨幣みたいに、この佐吉は動いてるんですな。

分業と比較優位 スミス、リカードゥ

さてこの金物屋の佐吉が、この若者に縁談を持ち込むところから話の本筋は始まります。

佐「悪いこと言えへん。嬶もらい」

乙「おのれ一人が食いかねてるのに嫁はんが養えるかいな」

佐「まあまあ聞きいな。一人口は食えんが、二人口は食えるちゅうのやで。・・・やもめほど無駄の多いものはないがな、なあ。第一お前、おかずごしらえするの邪魔くさいさかい外で飯を食うやろ。飯屋なんかへ入って飯を食うわ。その飯代、そこへ払う金を嫁はんに渡しといてみ、一日三度の夫婦のおかず代が出るちゅうぐらいなもんやで。家帰って誰も居らんよって外で一杯飲むやろがな。その金で酒屋へ行て酒を買うてきて嫁はん相手に飲んでみいな、倍飲めるがな、なあ。身につけるもんでもそうやで、邪魔くさいさかいじきに放ってまうやろ、洗うたりつづくったりしたら何倍保つか。朝でもそうや、なぁ、お前が顔洗うたり便所行たりしてる間にサッとこう片付けてご飯の支度がちゃんとできたある。それを食うてじきに仕事にかかれる。そら長の年月、上下えらい違いや、わるいこっちゅえへん、嫁はん貰え」

ここで佐吉が言うた「一人口は食えんが、二人口は食える」っちゅうのは、実は経済学における「分業」の利点とそれの発展である「比較優位」の話を説明しとるんですな。ここで佐吉は一人口で労働だけではのうて、家事全般を一人で行うことの非効率性を指摘してる。当時江戸時代はちょうど家内制手工業(マニュファクチュア)いうて、家の中で労働作業を分担することで仕事の効率化をした組織が出来上がったころです。これについては経済学の祖であるアダムスミスっちゅう人が、国富論で説明してることですな。一つのまち針を作るのに一人が一個づつやるよりも、分担して針金を切る、まっすぐに伸ばす、先を尖らせるという三つに分けて作業した方がよおさん針がこさえられる。そういうとります。で、そのことをもっと大きい考えで言い出したのは経済学を確立させたリカードゥいうお人で、この人が「比較優位」っちゅう理論を作った。例えばこの話では夫婦の作業を分けることを説明してる。この嫁はんが、仮に家事も仕事もからっきしの人やったとする。

佐「わしが世話をしたいと思てる女は、齢は二十二や。ええやろ。えろう別嬪ちゅうのやないがな、とりあえず背がスラッと」

乙「高いン」

佐「低いン。・・・色がくっきりと黒いんやがな。ま、鼻はどっちかちゅうと内へ遠慮してるほうやけどな、でぼちん(額)はガッと前へ出てるで両方の頬べたが出てるし、こう、あごが前へ曲がってるさかい、ま、こけても鼻を打つ心配はないわ、うむ。・・・目は小ちゃいけど口は大きいで。この左右のこの眉毛の長さの違うところに愛嬌があるなあ。右の目尻にちょっとはつれがあるけど、左の口元にあざがあるさかい、ま、入れあわせはついたあるわい。・・・まあ、縫い針やとか料理やとか、その花やとか女一通りの道は、まぁ、何をさしても半人前やが、飯は五人前食うな。・・・人との挨拶やとか折り目切り目の応対やなんかはうまいことようやらんが、要らんことはようしゃべりよるわい。あぁ。仕事は遅いけどつまみ食いは早いでぇ。・・・で、この女に、一つキズがあるのや」

乙「・・・まだなんぞおまんのかいな」

とまぁ、たとえこういう「縫い針やとか料理やとか、その花やとか女一通りの道は何をさしても半人前」な女でも、男が家事も仕事をするより、女が外の仕事よりは家事が得意やった場合、男の分も家事をやることで、男の仕事のできる時間を増やしてやれる。そうすると男の仕事をする時間が増える。「お前が顔洗うたり便所行たりしてる間にサッとこう片付けてご飯の支度がちゃんとできたある。それを食うてじきに仕事にかかれる」っちゅうことで一人の時よりも仕事ができるようになる。早起き三両というより早出三両ってとこですな。そうすると、それぞれが一人一人で仕事をした合計の仕事よりも、お互いより多くの仕事ができるようになる。こういう説明をしたのが「比較優位」で、この考え方を広げて個人個人だけではなくて、国と国との仕事の分担までこれで説明しおったんですな。一つの国で果物やら車やらまとめてやるより、よそのもっと果物の作りやすい国と車を交換した方がたくさんの果物が手に入る。「一人国なら食えぬが、二人国なら食える」っちゅうわけですな。

基軸通貨から信用通貨へ

で、この嫁はん候補という女、さらに臨月の子供がお腹におるという状態にも関わらず、持参金の二十円欲しさに若者は結婚をします。

乙「いや、も、貰いまんがな、その、二十円」

佐「いや、二十円貰うんと違う。嫁はんをもらう」

乙「そやさかい、その、あの嫁はん付きで二十円貰いまんがな」

佐「いや、違う。二十円付きで嫁はん」

ここでも若者は、さっきの昔のたとえと同じような論理の入れ替えを行ってます。この男の中で、物事というのは論理的に入れ替え可能であるという非常に理性的な方法でもって、自分の立場を説明するという、非常に近代的な近代的な知性を持った人物として描かれてるんですな。それに対して、佐吉は終始前近代、人間の情やら、しきたりやらにこだわります。この結婚がいい加減ながら決まったときも

佐「ちょっと風呂へ行て男前あげといで。乞食も身祝いちゅうことがあるさかいな、イワシでもええさかい尾頭をちょっと用意して、酒の二合も買うといで。盃のまねなとしたい。どんな貧乏長屋でも、こら儀式やさかいな。お前はんとこにはないやろ、家主さんとこへでも行て三つ組の盃があるやろさかい借りといで。で、ちょっと掃除も綺麗にしといて、あんじょうやっとかなあかんで。花婿やで」

とまあ、結婚の儀式としての体裁を整えようとする。結果、今晩で結婚をすることになるが、肝心の二十円は明日ということになる。

乙「忘れたらいかんがな。嫁はん忘れてもええわいな、あんなん。二十円忘れたらどんならん」

佐「それがな、ちょっと都合があってな、明日の朝ちゅうことになったんや・・・もうそんな顔しないな。今日が明日の朝になっただけのこっちゃないかい、わしがな、逃げ隠れするかいな、金物屋の看板あげて商売してんのやないかいな。この手でちゃんと持ってくるがな。」

明くる朝、奴さんがお金を受け取りにやってくるが、もちろん金はまだない。佐吉を待っている間に事情をきくと、実はこの嫁を妊娠させたんは、奴さんだということがわかる。

甲「ほなまぁ、佐助はんが言うのに、こら腹が目立たんうちに早いこと宿下がりせい、こらしゃあないなあ、旦那の耳には入れんほうがええで。ほで、まあ金の二十円もつけたらまたどこぞの阿呆が貰てくれるやろう、言うて、頼んでたんや。ほな昨日その阿呆があったんやて。」

乙「・・・はぁー。・・・実はわたしあの昨夜、嬶貰いましてな」

甲「ええ、なんでそれを言うてくれへんのやいな、そんなお取り込みのところへこんな話持って来えへんのやがな。えらいすまなんだなぁ、しかしまあまあ、そらァめでたい」

乙「・・・いやまぁ、めでたい、ような、めでとないような」

甲「何がいな」

乙「いやわたい、金物屋の佐吉はんの世話で貰たン」

甲「えぇ、・・・それはこのまた別の」

乙「いや、別やない。・・・これ(腹が大きい仕草)でこれ(指二本、二十円)や」

甲「ほな、貰てくれる阿呆・・・いや、

相手ちゅうのは、あんたのことかいな。・・・えらいことになったなあ、どないしょう」

乙「どないしょうちゅうたかて、もうしゃあない、もう昨夜あんた、盃事から何からもう全部みな済んでしもうたんで。まあまあ、まあこれが縁や、なあ。まあ、そう気にしなはんな」

共同体から契約社会へ ウエーバー

ここで男は、縁という言葉で、状況を全部受け入れるという態度をとっとりますが、実際、結婚の契約を済ませてしまった以上、取り消しは行わんという理屈をとっとります。一度結んだ契約はわやにせん、冒頭でも、借りた二十両は返さなあかんという約束に基づいて、男は嫁を貰てまいます。契約の厳格さ、それこそ近代資本主義社会の礎ですな。とまあこの話は、ちょうど近代資本主義が始まる時代を舞台に、それ以前との価値観の違う男である佐吉をトリックスターに、二つの交換を通じて、時代の変化を現した落語として読むことが可能と思われます。

マックスウウェーバーっちゅう学者は、いわゆる「共同体(ゲマインシャフト)

的な社会は貨幣経済に先んずる存在として、兄弟や親戚なんかの血縁、場所なんかの地縁に基づいたもんとして存在するという風に説明しとります。今回の話の発端である二十円の催促は、奴さんが若者の親から世話になったからという理由でもって返済を免責していたことを破棄するところからはじまっとります。

甲「いや、わしもえらそうに催促でけんというのは、あの金を貸した時に、昔お前はんのおとっつぁんにわしゃ世話になったさかいな、いわばその恩返しとして貸すんやさかい、何時何日までに払てくれてなことは言わん。都合がついたら戻してくれたらええがな、てなまあ、偉そうな口をきいた手前まことに言いにくいのやが、あれ返して貰いたいんや」

そして、この若者も、そういう地縁から一端切り離された、個人として描かれます。これは、結婚をしたときの台詞でこう言うとります

乙「それがない、それがないン。親はないし兄弟はない、親類なんか一軒もつきおうてしまへんがな。おのれだけ得心したらそれでええんや」

とまあ、ここはそれまでの「縁」でつながっていたような、共同体社会から断絶し、資本主義の基になっていくような個人による契約とお金のやりとりだけによる貨幣経済への転換がここで行われるんですな。そして、この共同体を体現する金物屋の佐吉、彼はその二人の問題をそれぞれ解決させるために、物語の内外でお互いの場所を移動します。この金物屋が、二人の間を行き交う「お金」の象徴である、という考え方は決して突飛なものではないと思われます。

貨幣の使用価値と交換価値 ケインズ

さてお金とは一体何なんやろうか。マルクスは物の価値っちゅうのを「使用価値」と「交換価値」っちゅう風に分けました。もしお金があらしやへんかったら、人は欲しい物とあげたい物を持ち寄ってそれぞれ物々交換をせにゃなりません。これが、お互い欲しい物とあげたい物が一致してたら楽やけんども、現実はそうもうまくいかん。そういう必要性から生まれたのがお金で、「これこれはこれくらいの価値があります」ということがわかってるものやったら、欲しい物が今んとこなくてもとりあえず交換しといて、欲しくなったらこのお金使うて買えばいい、そういう風に生まれました。これが「交換価値」ですな。しかし一方で、このお金にも使用価値があります。

最前話しましたように、この頃はお金に金や銀や銅などの貴金属がそのまま使われとりました。この金属の希少性が、そのままお金の価値を担保する、そういう仕組みになっとったんですな。これが俗に言う「金本位制」で、お金の源泉を金を基準に考える。

しかし、実はお金の価値に希少性なんてもんは関係ない、ちゅうた人がいます。最初に指摘したんはマルクスやけんども、ちゃんと理論立てたのがケインズっちゅう人。この人は「お金は数が少ないから価値があるんやなくて、みんながこれで物が帰るっちゅう信用があればわざわざ金を担保にすることあらしまへん」っちゅうたんですな。実際、今のお金には金に替える価値なんてあらしまへんし、この話でも、最後にはそういう過去には存在した貴金属信仰、そういったものを捨て去るようなことをして終わります。

乙「えらいことになったなあ。ほなまあ、とりあえずここにあるこの手拭ね、これをまあ、二十円としてあんたにお返ししますわ。長々ありがとうございました」

甲「確かに受け取った、として、これ持って去んで佐助はんに渡す、ほな佐助はんそれをこうここへ持って来る」

乙「ぐるーっと一回りしまんのやな」

甲「あ、ほんに金は天下の、回りもんやなあ」

ここではお互いが手元の手拭いを二十円としてやりとりしとります、これを、「お金はそれぞれがお金として交換できることを了解すれば、お金として価値を持つ」っちゅう後の信用通貨制の発端と考えることができます。そして、ここの最後のやりとりの場では金物屋の佐吉が現れへん。最後の最後になって退場しとるというんは、ちょうどお金の金属信仰を捨て去ったときっちゅうのは示唆的で、同時に金物屋が二人の交渉に不要になったんと平行しとります。つまり佐吉は、彼の共同体意識でもって二人の間を媒介した挙げ句、その媒介故に自身の価値を無効化してまう、そういう役割を担ってるんですな。

資本の自己増殖 再びマルクスへ

そして最後に重要なんは、お金のやりとりを終えて残ったもんです。これで話は全員がまとまって、全員が話の前の状態に戻っているようにみえて、一つだけ変化したことがある。もちろん佐吉の価値も変化はしとりますが、状態としては変わってない。唯一変わったのは、若者が嬶貰て結婚してしもたっちゅうことです。実はこれに、このお話に隠された交渉の二重の意味がある。

マルクスは資本主義の問題を、本来は商品を媒介するだけの貨幣が求められ、また貨幣が自己増殖することだというように分析しました。資本が利子という仕組みで自己増殖することで、資本主義はどんどん増大していくという説明をしたのが「資本論」。そしてこの話ではこの「利子」の役割がもう一つの交渉である「女の交換」として理解することが可能なんやな。

レヴィ=ストロースはお金の発達してない「未開社会」において、女の交換=婚姻システムが現代数学と同じ水準まで高度に発達し、それが社会を拡大する仕組みになっているという説明をしたのが、後の構造主義につながる「親族の基本構成」と「野生の思考」ですな。つまり女というものを媒介にやりとりする婚姻制度も、貨幣のやりとりをする資本主義も、それぞれ社会を拡大するためのコミュニケーションとして同値であるということを考えれば、ここでお金=女と考えることも決して突飛ではない。そして、この話では借金の利子は発生していないが、その代わりとして女をあてがわれる。しかもご丁寧に臨月を控えて妊娠中っちゅう、そのまま数が増えていく資本の自己増殖をそのまま体現したような女と結婚するんですな。そして若者はこれに同意して結婚する。このときに、男はもちろん持参金目当てやったが故ながら、それを理屈で肯定しとるんですな。

乙「お腹にややこがあったら傷ですかい・・・わしゃそうは思わんな。考えてみなはれ、えぇ。女の腹に子供があんのや、当たり前やがな。男の腹に子供があったらそら傷でっせ、これは。あんた、長年連れ添うた夫婦でも子供がなかったら赤の他人を養子に迎えて身代譲る人かてあんのや、そのこと考えてぇな、こっちゃ片一方だけなど真実者だっしゃろがな。第一向こうからこっちィ連れてくるのに腹へ入れてきたら風邪引かす心配もないで」

ここで、若者は子供の父親の血縁に関心がない。後になってこれが奴さんのもんやと言うことを知っても、けろりとしとる。最初借金の催促に追われる立場だった若者が、結婚して父親になるっちゅうことでこの話は終わります。そして、この交渉に対して相手の人格や血縁を挟み混まず、純粋なお金のやりとりと言葉の約束だけで行う若者こそが、新しい時代の生き方として現れていることを予言して。

あいも変わらず馬鹿馬鹿しい、人間の営みのお話でございました。

まさに「最初は悲劇として、二度目は喜劇として」やなぁ。

2012 関西ソーカルvol.1 収録

引用資料「桂米朝全集」から「持参金」

special thanks for Katsuhito Iwai

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