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0→1段階において、価値の裏付けになるのは個人が持つ”確信”だけ。【得意を伸ばすのか、新スキルを習得するのか】



「で、なんでそれが有効なの?」
「言語化できてない?それじゃ話にならないよ。」


とある会社の会話です。
いや、実際にこんな言葉を使っていたのか知らんけども、こんなやりとりをしたとのお話をクライアントさんから聞いたのですよね。


東京。
中心地にオフィスを構える大企業。
いわゆるバリキャリな働き方を生活の糧にしているMさんは自分のアイデアを仕事に投影できる、今の働き方にやりがいを感じているそうです。

アイデアが実際に採用されて、会社の収益につながると自分を誇らしく感じることができるのだとか。

そうよな。素晴らしすぎるよね。実際に相対してお話を伺っていても細やかな所作から優秀な人感が漂っている。すごー、、、、本物のバリキャリシゴデキウーマンだ、、、、なんて感じながら話を伺っていたのはここだけの話(なんとも間抜けに聞こえてしまうので言いませんでしたが笑)。


ただ、採用されるアイデアがあるならば採用されない物も当然存在します。
光があるところに影ありです。


自分が感覚として「絶対にいい!」なんて感じることがあっても、それを誰かに一緒に信じてもらうには、何かその情報を伝えるための”共通言語”を使う必要があります。


例えばそれは”数字”であったり”ロジック”であったりするわけです。
とりわけ”株式会社”と名のつく営利団体は、どうしてもその活動に多くの人が関わり最終的な生産物が”収益”という数字を伴うものなので社内での共通言語は数字であることが一般的であるように感じます。


しかし、本当に言語化に至らない価値の全てが棄却されるべきものなのでしょうか?


伝えやすい言語と相手を選べ。



確かに、我々が身を置いている資本主義社会では多くの価値が”数字”という言語を用いて語られます。

しかし、私はそうではない国の数字以外の言語を知っている。
その言語を用いているのは「ひつじの元を卒業していったクライアントさん」であったり、私がしばらく住み着いていた「ゲストハウス亀時間」であったり、GUCCIやARMANIだったりのラグジュアリーブランドであったり、、、、
あとはインテリアや写真の世界もそうですよね。

要は、”文系”の世界のお話です。

今回のクライアントさんはとりわけ価値の言語化に厳しい社会に身を置いているようだったので、私のものを卒業されていったクライアントさんたちが、どのようなプロセスで価値創造をしているのかをお伝えしてみました。

私のクライアントさんたちは、飲食店の”味”という言語を使っていたり、カメラを携え”美しさ”という言語を使っていたり、空間演出を用いて”癒し”という言語を用いたりする訳です。

私が数年前、さまざまなゲストハウスを渡り歩いているなかで「ゲストハウス亀時間」を好きだと思ったのは「なんか空間が落ち着く」「スタッフさんの人柄がいい」なんていう、いまいちはっきりとした言語化や数値化ができない価値に基づく理由でした。

とても素敵な場所でした。


そしてブランド品の世界。

あなたがGUCCIの財布を持つ、論理だった必要性はありますか?
何十万円も払って、対して収容性の良いわけでも、耐久性の良いわけでもない鞄を買う必要性があるでしょうか?

これらの理由や価値、合理性を数字や言語のみで語るのは難しい。
数値化は最終的にどれだけの市場規模があるかという、金額で表現することになるだろうし、合理性の言語化は、、、、それっぽい理論を語ることはできるだろうけど、その理論を聞いた人がみんな今すぐGUCCIのショップに行って鞄を買うかと言ったらそうではない。絶対的に最後に介在しているのは買い手の感情であったり情緒だったりの数値化、理論化が難しい要素である。



数字は世界共通言語だけど
それ以外の言語でも文化は営まれている。



言いたいのはね、何も全てを数字に置き換えて判断しなくてもいいのではないか?ということです。

最近ひつじとのお話をはじめたMさんに、今までのクライアントさんの成功事例をお話ししたら「わあ、、、、それでいいんだ、、、言語化できてなくてもいいんだ、、、、!!!」なんてリアクションが返ってきました。

いいのですよ。
そりゃあ、数字や理論で言語化できていたら多くの方にその価値は伝わりやすいだろうけどさ。必ず数字という言語に翻訳しないと情報がやりとりできないわけではないですよ。


私たちは英語が広く流通する世界の中でも、日本語で暮らしているじゃないですか。


そりゃあ英語が話せれば自分が生きる世界は広がるけどさ。その方が合理的だけどさ、全員が全員合理性だけでものを判断しているわけじゃなさそうです。英語を話せない日本人はまだまだ多いし。


自分が行きたい世界の言語を習得するタイプと
自分使える言語を極めるタイプと。



そういえば思い出した。
消防士一年目の夏。

ひつじはAEONに通ってました。
英会話スクールね。
ついでにTOEICも受けました。
初受験のスコアは435点。
うーん、、、。


消防士というキャリアに納得のいっていなかった私は、とにかく自分の活躍できる領域を広げようと英語の習得に勤しんでいたのですよね。

でも3ヶ月で辞めてしまいました。
その時は「継続力ないなあ、、、、。」
なんて落ち込んだのだけど
今になって思うのは少し違う感情です。

「自分は新しい言語で道が開けるタイプじゃない。」そんなことを感じています。


「継続力がないな。」なんて自己評価は今では覆りました。だってSNSやコーチングはもう継続して4年目になるし。売れない1年間を超えて活動を継続してきたのは正直尋常じゃないと思っている。


自分は今自分が好きなものを極めることで、道が開けるタイプだったんだ。


必要とされている言語よりも今自分が「なんかいいな」なんて思っている言語を「これ良くない?」なんて広めることに情熱を燃やせるタイプのようです。



0→1の段階で理論は用意できない。


そして私のコーチングでは
「人の魅力を引き出して、自分らしく生きる戦略を立てる」なんていう
ようわからない価値を形にするに至っている訳です。


最初はそりゃ言語化が至っていないし
価値が数値化されていなかったから
あまり私のサービスは信じてもらえるものじゃなかったよ。
一年目なんか特にね。


でも、継続してきたことでその価値を信じてくれるお客さんがあらわれて、収益という数値化ができるようになった。

お客さんもまた収益を出すようになった。

さらにお客さんたちの分析をすることで、私のコーチングの価値は理論を伴いようになった。言語化ができるようになった。


「なんとなくいいね」なんて
ほんわかした”情緒”という言語でしか
語れなかった私のコーチングは


活動を継続してきたことで
結果としてより多くの
言語を持って語れるものに化けた。


今ではクライアントさんの流入も
成果が出る推移の仕方、成果が出るまでに歩むステップ。
ステップごとに生じるイベントや特徴も
その傾向がデータとして取れている。


だからどうしたら、クライアントさんが成功するのかを理論をもって語れる。
どうしたらクライアントさんが流入してくるのかを理論をもって語れる。

でも初年度はそうじゃなかった。

自分がコーチングを受けて「とても良かった、、、、!」という経験をした。
この一点でしかコーチングの素晴らしさを語ることはできなかった。


でもそれでいい。

理論を用意するのは後からどうにでも補える。


理論なんかいいから「いいアイデアだ!」なんて確信めいたものがあるのならば、必ずしも周囲がわかってくれずとも始めて見てくれ。勿体無い。

絶対に価値になるので。
後から人も理論も数字もついてくるので。

数字を用いて語るのはそれからでよし。



「言語習得」「ローカル言語を極める」
得意から始めよう。いつかもう一方も補える。



感情のままにキーボードを叩いてみたけども、そろそろ内容がまとまらなくなってきました。終わりに向かいましょう。


言いたかったのはね
「数字化や言語化されたものだけが価値じゃないよ。」
「自分が得意なローカル言語から始めてもいいのでは?」
ってことです。

どんな世界でもそうなんだけどね、少数派は多数派に脅かされがちだ。
数字や言語化を伴ったロジックは最も簡単に、感情や情緒の価値を駆逐してしまう。

Mさんは言語化を求められる会社にいながらも、情緒で価値を感じるものを捨てきれずにいるようでした。だから会社にいるだけでは情緒に光が当たらずにもやっとしているようです。


私にも似たような経験がある。
それは消防士時代のこと。
あの職場ではみんなが命の保護に活動の”全て”を傾ける。

そりゃそうさ。

収益が上がらなかったら暮らせない。
命がなくなってしまったら話にならない。

収益も命も絶対に無くしてはいけない大事なものです。


しかし、大義を伴った大きい価値は簡単にローカルの価値(情緒とかね)を駆逐する。

(消防署においてその被害を最も被っているのは意外と隊長クラスのベテラン勢でした、、、、その話はまたどこかで。)


周囲に伝わらなくても、あなたが感じていることは間違いなく”価値”です。
いきなり言語化や理論化ができなくても、まず始めてみてはいかがでしょうか。
ほんわかした情緒の価値も続けていれば大きい力を持つことになりますよ。


おしまい。







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