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人と形が揃ってなくても


引っ越しが決まった。
最近はずっと、新しい部屋はどんな空間にしようかなぁと思いを馳せていた。

わたしは空間作りのセンスがまるでない人間なので、色々な人のお部屋を参考にさせてもらった。インテリア界隈の人やフォトグラファーさん、スタイリストさんなどおしゃれな部屋に住む人々のアカウントをインスタで見漁りくまなくチェックした。

そうしているうちに、自分が何を良いと思っているのかだんだんわからなくなってしまった。

インテリアは、ファッションと同じでこれ!という正解がない。
もちろん「うわ〜これ何度見ても素敵だな」と思う家具もいくつかある。そう思えるものはいつか時が来たら迎えようとメモしてあるのだけど、たまに「あ!この家具あの人も持ってたな。ってことはこれがおしゃれな部屋の正解なのか。」と自分に言い聞かせるように納得させようとしてる瞬間にハッと気づくことがある。

この人たちは名品と呼ばれるデザイナーズ家具の美しさとか、ヴィンテージの趣きの深さや価値を真に理解して買っているのに、かたや自分は心のどこかで「おしゃれな人が持ってるからこれを買ったら正解なんだ、これがおしゃれというものなんだ」という考えが片隅にある気がして、それがすごい違和感だった。

その違和感を感じるたびに、いかんいかん心をフラットにせねばとひと呼吸おくんだけど、次第にそれにも疲れてくる。「もう部屋とか、寝られればなんだってよくね?」と投げ出したくなる。
でもしばらくするとまた「やっぱり自分好みの空間を諦めたくない…」っていう気持ちが湧いてきて、
その繰り返し。


こだわり抜いたおしゃれ部屋に住みたい自分と、居心地さえよければもうなんでもいいと思う自分が交互に入れ替わり立ち替わりしてる感じ。

こういうことを思っちゃう時点で、つくづく自分はおしゃれに程遠い人間なのだなと思う。
それでも別に問題ないし、それが自分という人間なのだと認めるしかないんだけど、こういう小さいことをちみちみ考えている自分がたまに嫌になる。

おしゃれすることは楽しいし、わりと好きなほうだと思う、多分。だけどそれで自分がおしゃれになれるかどうかは別の話。

インスタグラムには、生まれながらにしておしゃれで、何をするにも日常のどこを切り取るにも洒落てる空気を醸し出す人たちがいっぱいいる。統一感があって、かと言って無理してる感じもなくて、自然体で格好いい人。

その人たちのことをつい自分とは別人類のように見てしまうけど、そういう人たちの中にもわたしと似た葛藤を抱えながら苦悩のセルフプロデュースしている人たちもいるのかな。そんなことを寝る前に目を瞑りながら考える。

ああいうナチュラルボーンに生粋のおしゃれな人たちの中に、わたしみたいにインスタを見漁っておしゃれ人の市場調査やムードを研究したりすることってあるのかな?それともやっぱり天性のものなの?


話は少し変わるが、こないだ両親に会った時に高知のレポ漫画の話になった。「高知の良さがとても伝わる漫画だった、高知に行きたくなったよ」と言ってくれた。

わたしはそれに対し「本当に高知が大好きだと思ったから、あの四日間で思ったことを全部詰め込んだ。高知の良さを誰かに伝えたくて気が済まなかったんだよね」と言った。

すると父がこんなふうに言った。

「正しい情報を正確に届けるのも大事だけど、それはGoogleや旅のガイドブックで調べたら出てくることでもある。お前の考えを、お前の言葉で書いたからあんなに人の心に届いたんだね。それが大事なんだと思うよ。たとえ自分の考えが正しくなかったり、人と形が揃ってなかったとしても、みつこの考えから生まれた言葉を読みたい人たちがいるんだよ」と。

わたしは自分の考えや選択にあまり自信がない。
家具ひとつ、自分が何を買うのが正しいのかわからない。

正しいなんてないことはわかってるつもりでも、自分のセンスが信じられなくて、いっそのこと誰かにこれが正解ですよと示してほしいと度々思ってしまう。

最近よくある、話の途中で「あれ?結局何が言いたいんだっけ?」と喋りながら自分が何を言いたいかわからなくなってくる現象も、自分の持つ結論に対する自信のなさとか迷いが原因なんだと思う。

自分の言葉で考えを表現しなくちゃいけない。
人に伝えることをあきらめないように粘り強く。

できないことなど、きっとないはずなのだから。

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