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「左千夫先生のこと」斎藤茂吉

※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


左千夫先生のこと 斎藤茂吉 


 伊藤左千夫先生は反省だの修養だのといふことについてよくよく話されたが、先生自身の内から動いてくる力が、あの大きな體でも抑へきれないほどであつたやうである。そこで先生は短氣で、何事も我慢が出來なかつたやうに見え見えした。嬉しい時でも癪に觸る時でも、それが赤裸裸にあらはれるやうに見えた。言葉を換へていへば、先生のあらゆる行動は先生の命の純なるあらはれであつたと云ふことが出來る。
 先生は嘗て正岡子規を論じて、心の動くままに行動した人であつた○○○○○○○○○○○○○○○○少しもエラク見えない人であつた○○○○○○○○○○○○○○○、と云はれたが、この言葉はやがて先生自身のことを語つて居るのである。
 而して、一首の歌が分かれば天下國家などは何でもないと云つて居られたが、僕らのことをも常々心配せられ、齋藤君もああ子供では病院やるのも面倒だらうとか、古泉君も今の儘のぐづぐづでは困るなどというふことを云はれたものである。
 本年の四月、淺草の寺で石川啄木の追悼會のとき先生も出席され、そのとき初對面の前田夕暮氏に、『あなたの「詩歌」の歌も段々アララギの歌に近づいて來ましたね』と云はれた。すると側にゐた土岐哀果氏が、『しかし前田君の方からいへばアララギの方が詩歌に似て來たといふことになるんだらう』と云はれた。先生のこの飾󠄁らぬ言葉は實は前田君に對する會釋であつたのである。萬事がかういふ風であつたから、周圍から微笑を以て迎へられるといふところもあつたのである。土岐君が初對面以來先生に好感を持つやうになつたのも、さういうふ直感に本づいてゐるやうである。
 先生の門人等は時たま先生から褒められて居る。明治三十七年發行の馬醉木で古泉千樫が褒められた。
 『以上二十首中十二首を錄す。古泉君の作を我馬醉木に見るは始めてなりと思ふ。一見平淡少しも巧を求めず、而して精神自から新らしき所あり。根本に何等の趣向なく、徒らに文字上に技巧を弄して得たりとなせるもの多き間にありて、古泉君の作意頗る予が注意を引けり』云々。
 先生は、平明にして堅實な古泉君の作の特徴を認めて其を稱揚し而して古泉君を勵ましたのである。次に明治三十九年三月二日附のはがきで僕に云はれたのは、
 『……貴君の作歌は甚だ面白く候。貴君は一種の天才なる事を自覺し、今の儘にて眞直に脇眼ふらずにやつて貰ひたく候。決して人の眞似などせぬ様に願ひたい。惡ければ削る。出來たらばどしどし送り給へ。梅の歌も面白い。渡邊幸造君のも面白い。これは四號へ出すべく候。……』
 僕を一種の天才だとまで勵まされ、そして僕の歌の癖を面白がられて、いつも人の眞似をするな眞似をするなと云はれたものである。ところが僕の惡い習癖が増長して來たとき、君の歌は部分的だ、技巧的だと戒しめられたものである。
 丁度その技巧的の話をして居た時のこと、鹿兒島の高等學校に居た中村憲吉君から始めて歌の投稿があつた。その時先生は甚だ喜ばれ、これはなかなかたちがよいといふことをしきりに云はれたのであつた。囘顧すれば其れは明治四十一年の事で、日本新聞に載つた竹の歌である。
 『素朴なる寫生の趣味に一種云ひ難き味あるを覺ゆ。一見淡然として然も作者の用意底にこもれり。予は平生寫生歌の容易に成功し難きを云へるもの、今此作を得て前言の淺きを悔ゆ。敢て一言を附する所なり……』
かふいふ批評が附いて居る。
 近頃諸同人におくられた先生の書簡を見るに、僕等に對して、腑甲斐ない腑甲斐ないと思つて居られたことが分かる。恐らく先生は僕らの事を、まだ遠いまだ遠いと思ひながら死んで行かれたことだらう。秋の一日代々木の原を見わたすと、遠く一ぽんの道が見えてゐる。赤い太陽が團々として轉がると、一ぽん道を照りつけた。僕らは彼の一ぽんの道を歩まねばならぬ。
 先生の安らかなお體をば寝棺の中に納めまうしたとき、奥さまが先生のふだん用近眼鏡二つを棺の中に入れられた。この近眼鏡二つかけられて、而して先生は子規先生から近眼の人は迂であると批評せられたのであつた。(大正二年十月十二日記)


底本:斎藤茂吉全集第七巻 昭和27年10月10日第1刷
初出:「アララギ」大正2年11月号


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