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往診キロク①

このお話はお客様の許可をとって書いていますが
身バレ防止のため 少し脚色や偽名を使っています。


私とあきこさん(偽名)が出会ったのは
丁度、コロナが出始めた頃だった。
もうかれこれ、6年目になるだろうか。

前任の往診の方が コロナの恐怖で家から出れなくなり 往診を辞めてしまったのだ。
そのまま 体調を崩してしまったらしい。

その後釜に 私をというご相談を受けた。
施術の最後にむくみ改善用に弾性包帯をまいてほしいというのだ。
 前にも、足が浮腫んで象のような足になってしまった人にも弾性包帯を巻いてあげていたので、その仕事を引き受けた。

 最初の顔合わせの時 その姿にびっくりした。足首は金魚のスイホウガンのように膨れ上がり、顔はステロイドの副作用によりムーンフェイス。肩は球関節がほとんど溶けて無くなっているので 肩幅が小さい。
 手も足の指も全て変形したため一回きってつなぎ合わせている。

リウマチの人にはよくお会いするがこんなに進行している人には初めてあったのだ。

私は平静を装いつつ、話し始めるが
仏頂面ではっきりと自分の主張を言う
あきこさんに びくびくしていた。
面倒なお客様に当たってしまったかも。

私は不安でいっぱいだった。

それでも、にこやかに対応することを心がて
前回はどうでした?と根気強く あきこさんのニーズを探っていく。

この前は包帯がすぐ外れて。
とか、包帯がきつすぎた。とか

何回か行っていると私も あきこさんの
足の様子がわかってきて、包帯も丁度よく巻けるようになってきた。

たぶん、通い初めて2ヶ月はたっていたと思う。
だんだん、打ち解けると自分の幼少期の話から話してくれるようになった。

あきこさんの子供の頃

子供の頃は福島の山奥の宿舎に住んでいた。
ほとんどが森に囲まれて 雪が深く
リアカーにのって 隣の村の祖母の家に遊びに行ったりしていた。

小学生の頃
夜、真っ暗な中 外にある共同のお風呂に行く途中。真っ赤になっている空に気づいた。
「山火事だー!」という声とともに
お父さんや男の人が 自転車で山道をかけて行った。
帰ってくると。
「どこにも、火事はなかった。」と言ったのだ。
不思議なこともあるものだと思っていたら
次の日のラジオで 
「福島の山奥でオーロラがでました!」
と言っていたらしい。
たぶん、冬だろうと思われる。

すごく、空気がキレイで寒い所だったのだろうなぁ。とあきこさんの故郷に想いを馳せる。

冬はスキーを、よく楽しんだという。
もちろん、竹で作った手作りのスキーだ。
スキー場から最寄りの駅まで5キロくらいあるが
雪が降りすぎてバスがなかなか来なくて
スキーで駅まで帰ったことがあるらしい。
そんな元気な女の子だった。


あきこさんがリウマチを発症したのは17歳の頃だった。足の小指が右も左も痛くなり
痛くて、歩けなくて町医者にいった。
「これは、座り方が悪いせいですね。」
と怒られ帰ってきた。
その後、何ヶ月かすると 足の痛みがひき
あきこさんは東京に就職する。

20歳の成人式を迎えた頃 今度は両手首が痛くなり 神奈川の大きな病院に診てもらうと
リウマチですね。という診断だった。
一生この薬は飲んで下さいと言われ
泣く泣く 仕事も辞めて福島に帰ってきたのだ。

薬を飲んでからだいぶ痛みも落ち着き 
洋裁学校に通い始めた。
いろいろ、縫えるようになると 洋裁の学校の先生から仕事をらもらい、オーダーでスカートや
スーツなどを縫うアルバイトをはじめる。

そのあと、膝が痛くなり あまり歩けなくてなるが、36歳で人工関節をいれてからは 車の免許をとった。
そこからは、いろいろなところに自分で行けるようになり、旅行を楽しんでいたのだ。


あきこさんは結婚も子供も産まないと決めていた。
この時代、結婚しない女性はどんなふうにみられていたのか、想像がつく。
今でこそ、結婚も出産もしない選択があるが
男性に頼らず 食べていくと決めたのは大変なことだっただろうと思う。

慣れてくると にこやかにいろいろな話しをしてくれるあきこさん。
あらゆる、民間療法も試してきたらしい。
それは、また別の機会に。


私は思う。
治らない病気になると 絶望してしまうが、
その中で楽しみを見つけたり 努力する人と 
諦めて時間をただ潰していく人。
どちらが 良いとか悪いとかではないが
あきこさんのように、その時その時を 楽しみを見つけて一生懸命に生きているほうが胸を打たれる。

今は寝たきりのあきこさん。
それでも、ヘルパーさん達の相談に乗ったり
いろいろ、ためになる話しを話してくれる。
 私はこんなに動く体をもっているんだから
もっと 一生懸命生きねばといつも 励まされる。
 

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