見出し画像

おもち

美しくて白くてあたたかくてふわふわで愛を歌い踊る、そしてつついたりつねったりしてくる存在がいなくなってしまった。その名前を今実際に口にしようとするとどうしても涙が出てしまい、言葉にならない。

2015年のうすら寒い12月に家禽店で文鳥のヒナを見せてもらった時、一匹だけぼんやりとしていて元気よくエサをねだる他の兄弟に踏まれ、挙げ句の果てには背中に兄弟のものとおぼしきフンがついていた白文鳥のヒナがいた。少し迷ったけれど、こんなにぼんやりしていたら他に貰いてがつかないかもしれないし、という考えに至り、その白文鳥のヒナを家に迎えて、おもちと名付けた。
私がいのちに名前を与えるなんて。

そういえば名前って何だろう。

嘴のわきにあるのが噂のパッキンか、背中の羽毛は首回りは灰色で、人間で言うなら蒙古斑だね、おもち。

挿餌のあとに手の中で眠るおもちの温かさに、胸が締め付けられるくらいの愛を感じて後悔した。大きな不幸に耐えられないのと同じように、大きな幸せも耐えることが難しいように思えた。
そしていつかお別れしなければならないことも。

ヒナ用の平置きケージを開けた時、誰も教えていないのにおもちが飛び上がって人間にとまろうとしたときには驚いた。iPhoneやペン、パソコンのマウスを人間が握ると激怒してつつき回してくる。竹串を噛んで嘴を鍛える。平置きのケージはやめて、輸入物のアラブ装飾みたいな意匠がついた籠に移った。

やがて産毛がおちて背中の灰色の毛もなくなり、真っ白な絹のような、梔子の花びらのような羽毛、きれいなフクシャピンクのくちばしとアイリング、珊瑚色のあんよを持つおもちになった。

ブランコにのって片足立ちで眠ったり毛繕いするなんておもちはすごいね。ブランコをつついて揺らしてシャドーボクシングみたいなことをして、トレーニングに余念がないね。強く育って嬉しい、ヒナの時は兄弟に足蹴にされてて心配だったんだよ。

おもち、誰も教えていないのに、さえずることを覚えるんだね。

水浴びが好きなくせに、水をはった容器に人間もいっしょに手を入れてピヨピヨ言わないとなかなか浴びはじめず、容器の縁をぐるぐる徘徊してはこちらに目配せして援護を要求する。
かと思えば、水道から流れる水を見ているだけで、水に浸かってもいないのに水浴びの仕草を始めることもあった。おもちにとって水の概念とは何だったんだろう。

新しいおもちゃを怖がるけれど、少し日が経つと慣れて遊び方を見つけ出し、楽しそうに遊んでいること。日々変化して成長していること。

おもちは鏡に向かって歌いながら踊りの練習をしている時があった。おもちゃの部品を上手にくちばしでつま弾いて楽器のように音を奏でリズムを交えながら歌い踊るのだけれど、人が見に行くとやめてしまう。その思春期の人間みたいなしぐさが愛おしくて、見ないフリをしながらそっと覗いては目に焼き付けていた。

仕事がつらくて朝わたしが泣いていると、肩にとまって歌って踊ってみせてくれた(そのあとどつき回されるんだけど、あの求愛からのどつき回しは一体どんな意味だったんだろう)。

昔は放鳥するとなかなか籠には戻らず人間の肩や頭に乗っていたのに、いつしか家庭内の紙類をせっせと集めては籠の中に持ち運んで、ティッシュ、各種請求書、ダイレクトメール、本のしおりをああでもないこうでもないと右に左に配置を変えて養老天命反転地を籠内に建設し、最後にはマズいレイアウトでエサ箱にリーチ出来なくなったため、困り顔でこちらを見つめてくるということもあった。

みかんはそこまで好きではなくて、リンゴだとアンビシャスが好き、梨は好き、スイカも好き。苺や葡萄は目もくれない。小松菜はあまり好きではないが青梗菜は好き。胡瓜も好き、豆苗は好きだけど食べるのが下手。最後まで煮干しと海苔は食べなかった。

「おもち」と呼ぶと返事をして飛んでくるおもち、差し伸べた手にぴょこんと載るおもち、肩やてのひらにふんわりと腰掛け丸くなり眠るおもち、私に向かって歌い、踊るおもち。おもちが私の世界を変えてしまった。もうおもちに出会う前には戻れないのだ。野菜や果物を切る時に、おもちが食べる分も小さく切り分けておくようになる前には。夜おやすみと声をかけながらおやすみカバーをかけて、朝おはようと声をかけながらカバーを外す暮らしを知る前には。

今年の換羽はなんだかつらそうだね、おもちももう中年だしなぁ、などと話していた矢先だった。
今朝、いつもとは様子の違う呼び鳴きに驚いておやすみカバーをめくった。さしだした私の手に載ったときの弱々しさ、その後のことはここに記すのは控えておく。


本来ならば未分化であるはずの世界に、私はおこがましくも名前を与え、意味が生まれた。やがてその名前は意味と分かち難いものになってしまった。
おもち、愛しているよ。あなたがいなくなってこんなにも寂しい。

いや、違う。
本来ならば未分化であるはずの世界に、あなたは名前を与え、意味が生まれた。やがてその名前は意味と分かち難いものになってしまった。
あなたが私に名前を与え、あなたが私に意味を与えた。
あなたの与えた私の名前は何でしたか。

神様、この白い小鳥について、私の語りうる全てをここに記すことはかないませんが、どうか冒涜にもひとしく思われるような私の表現をお許しください。そして、小鳥を、私のいのちのともしびを、もう会えない文鳥たちの国へ導いて下さい。


おもち、愛してる、おやすみ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?