R・M=シュテルンベルク『デーモン考』引き写し

意識の壁を越えたところにあるものを人間は何一つ所有しえないのだ。そこでは、むしろ逆に人間自身が所有されているのである。つまり、人間は「より高い力」に服従しているのである。(中略)だが、実は名づけることによってかえってこの力の虜になったのだ。
名前のないものはすべて神秘なのだ。(中略)、名前のあるものは、人間と世界の間に、人間とその所有の間に一つの結びつきを生み出す。しかしながらこの結びつきが相互に依存しあわない場合にはどれもこれも破壊的に作用する。

ヨハネによる福音書

信仰が消え失せるときには、名前と概念はもはや一致しないのである。
子供が机の角に頭をぶつける。その場合、非難さるべきものは机の角ということになる。すなわち、机の角がいたずらをしたのであり、たたかれるとすれば机の方なのである。

人ー物における主従関係

事物は、自分のためばかりでなくこの世界のために問いかける人間にのみ語りかけ、また自らを明らかにする
ショーペンハウアーは魔術的な力を「意志そのもののうちに」見ており(中略)奇妙な徴候と行為は、悪霊を呼び集めたり追い払ったりするためになされる無意味な言葉をも含めて、意志が乗る空車であり、固定手段である。しかもそういったものによって、魔術的に作用するはずの意志行為は単なる欲望であることを止めるのであり、現実的な行動となるのであり、肉体をも包括するのである。

呪文/自分から外世界へ干渉するプロセス/肉体化/肉声

たとえば、お醤油とって。と思っているだけで醤油をとってもらえることはないが、声に出すことで、自分の肉体を行使せず誰かが自分に醤油を手渡してくれるならそれは一つの魔術ではないか?

名前は、名づけられた当のものを溶かしこんでいる。つまり名前は、名づけられた当のもののなかに現れるのである。
われわれは生から死を追いだそうとする。にもかかわらず死のなかにこそ、もはやこの世のものではない永遠の生が隠されているのを見ようともする。
苦痛に満ちた抑圧が、いまだ誰一人として味わいえなかったような歓喜に姿を変える。

俗→聖への転化、ランボーの『最も高い塔の歌』あるいは稲垣足穂『弥勒』

実存とはすべて、自らを越え出ようとするもの
「流れる」のは心臓ではなく、心臓から出て、心臓へもどる血である。リズムの中を流れるものは、リズム固有の存在ではないのであって、リズム固有の存在からその作用として生ずるもののことだ。
現実の循環運動は同じ運動の繰り返しではなく、個のなかで、その都度、一回かぎりのものを創造する。
「まことに、汝らに告ぐ……」という言葉の繰り返しのなかにすでにキリストの約束のリズムが働いている。このリズムの中で、福音書は人間の心情に訴えてゆく。
再生へと導きしかもなおたえず新たな苦しみと情熱へと導く勇気によって、あらゆる生は更新される。
不幸という言葉を使うことで、恐れている当のものがしのびこんでくるかもしれない、不吉なリズムが呼び覚されるかもしれない、という理由から不幸を不幸と名づけることを恐れるのだ。

言葉にすることで目に見える、耳に聞こえるようになる、肉体が回路として通じて、外と内が接続する

喜びの感情だけで十分脈搏が早まるように、他の様々な興奮状態でも同じである。身体を動かしても脈搏は早まるものだ。つまり、いかなる生の営みでも、それ相応の、生を束縛するリズムを持っているものだ。
自らの心をこの世の財宝に奪われることなかれ、というこの言葉は、この世で生きようとする可能性を隠すことによって、財宝の所有が可能にする価値をも隠蔽してしまう。
ところで人間はこの世界に生きているのであるから、人間が世界に加えるものは、同時に彼自身に加えられたものでもあるわけだ。

世界(=他者)に与えるということは、結局世界(他者)に含まれる自分に与えるということである

自分の検索能力が足りないからかもしれないが、ネットのどこを探してもレビューが上がっていない本。前半部分に自分が興味関心のある事柄が集中していた。

すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。