11/22 松尾芭蕉の俳句について

山本健吉『芭蕉三百句』読み終える。気になった句をいくつか拾う。

・此梅に牛も初音と啼きつべし

梅に鶯だと和歌で、梅に牛なら俳諧らしい。たしかに「梅」と「鶯」だといかにも風流だが、これが「牛」に変わるとなんだかとぼけたような間合いがある。

・夏の月御油より出て赤坂や

「御油」も「赤坂」もただの地名で、夏の月夜の晩に御油から赤坂へ向かうだけだが、

御油・赤坂の地名と「夏の月」とが、匂い・うつりの関係に立って、微妙な照応を見せているのである。

とのことで、たしかにこれは春・秋・冬の月ではなく、夏の月である必要がある。油も坂も夏の月夜にこそ似合う。

・あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉

これは奇想の俳句で知られる基角の「草の戸に我は蓼くふ螢哉」という句に向けて。芭蕉は古典からの引き写し・引用・改竄は平気でやるし、こうやって同時代の人間の句にビーフをしかけるし、むちゃくちゃヒップホッパーだ。

句の意味は「てめえは酔っ払ったてめえを螢だのなんだの言ってるが、俺は朝起きてちゃんとあさがお見ながら朝飯食うもんね、平凡でなにが悪い」というようなもの(ほんとか?)。妻帯者になった自分には理解できる。あさがお見ながら飯食ってる男の絵面ってのは面白い。

・海くれて鴨のこえほのかに白し

鴨の声をほのかに白いと感ずる特異な知覚は、その姿のさだかに見えない夕闇を媒介として生じた。ここでは聴覚が視覚に転化されている。

まず「海くれて」というのがいい。陽がくれるのではなく、海がくれる。いつのまにか海の色は黒くなるなかで、ぼんやりと、まるで灯りをともすように鴨のこえが聞こえる。鴨のこえってどんなこえ? 聞いたことはないけれど。

・辛崎の松は花より朧にて

朧にて、、、なんやねん? ともちろんツッコミを入れたくなるように作られていて、花よりも朧だから美しいのか、儚いのか、切ないのか、それは分からないが、それを言ってしまうとイメージが固定されてしまうわけで、ま、この続きはみんなで自由に考えてくれいや。と、言い切らないことで句の中の可能性は消えず限定されず広がったまま残り続ける。

句中には「松」「花」「月」「雨」が、あるいは実景として、あるいは虚像として、あるいは言葉として、あるいは裏にかくれて、存在する。
濃淡さまざまのイメージによる、幽艶な情緒が生み出されている。「花」は言葉としてありながら、具象としてはない、しかも詩的イメージとしては存在する。

らしいです。ああ、雨にけぶった松が花よりも朧なのね。そしてなるほど、「花」はどの花でもない、イデアとしての花ということで、見る人によってどんな花を思い浮かべるのか、その可能性もここでは全方位に開かれている。

・つつじいけて其影に干鱈さく女

「つつじ」と「干鱈」という取り合わせの妙。大きなものに戻すと、「花」と「魚」の取り合わせで、かつ「生」きた花と「死」んだ魚が対比されている。その景色に女。凄まじい感覚で、日本の神話といっても過言ではない。

・菜畑に花見貌(がお)なる雀哉

かわいい。仕事もせずに全国をぷらぷら旅してるおっさんがこんな言葉を言い放ってにこにこしてるのが最高。

・痩ながらわりなき菊のつぼみ哉

わりなき、とは仕方がない、やむをえないの意味らしい。

みごもった痩身の婦人のイメージ

が連想されると書いてある。マジカルバナナか。茶化してすんません。いいですね。

・行くはるや鳥啼きうをの目は泪

中国の詩人杜甫の「時に感じては花も涙を注ぎ、別れを恨んでは鳥も心を驚かす」、あるいは祟徳院(天皇)の「花はねに鳥は古巣にかへるなり」の発想を踏まえているとのことで、ラッパー芭蕉の本領発揮。過ぎゆく春に鳥は泣き、魚も涙する。

今日はこのへんで。

朝から真舟とわバンドのベースの練習。自分で作っておいてなんだが、けっこう弾きこなすのが難しい。いまは編集だったり、何度も録り直しができるので。そう考えると、偉大なあの神々はいったいどれだけすごかったんだ、と、そんなことを考えても、比べても意味がないよ、練習練習と妻が言うので(妻のこういうまっすぐなところが、俺のようなひねた人間にはまぶしい)練習する。

明日は真舟とわバンドで合わせる。当たり前のことだが、しかたなく弾いている、というのではなく、真剣に、心を込めて演奏する必要がある、とつくづく思う。我を忘れるような恍惚とした演奏の中、それでいてのめりこみすぎず。

昼ごろ、妻から連絡が来る。今日はなんの日でしょう? スケジュール帳を開く。なんか予定入ってたっけ? 日にちを見て気づく。なるほど。 1122。いい夫婦の日ね。せっかくだからちょっと外で飲んだりしようよ、と決まり、「餃子ノ酒場」というところで飲む。一杯で酔う。そのまま興が乗り、いっちょ歌でも、ということでカラオケに行くことになる。待ちがあり少し時間を潰す必要があったので、もう一杯だけと妻がすすめる「國 KOKU」という立ち飲み天ぷら屋に行く。ここが当たりで、安くて美味い。また誰か行きましょう。

歌い終えて家に帰ってきてもまだ時間は晩の八時を回ったところで、シャワーを浴びてコーヒーを飲む。My bloody valentine『isn't anything』レコードで聴く。今日もまたこのアルバムの良いところが理解できた。2曲目「Lose My Breath」の不吉な通低音を聴いて今日はScott Walkerの「It's raining today」が頭をよぎった。若いギタリストに教えてもらった曲で、サビで失神しかけた記憶がある。掃除機でゆっくりと昼寝の夢を吸われている感覚。ふるい記憶が消えていく。現実と夢が入れ替わり、やがて自分という存在そのものが消去される。

このnote読んでる人だけですよこんないい曲教えるの。


昨日妻と話していて、いつの間にか自分たちがずいぶん歳を重ねたことに気づいた。やがては死が訪れて俺たちだって無になる。そう考えると、幸せであればあるほど哀しみもまた強くなるのか、と、これはオザケン『Life』を聴いた時にもそう考えた(だからあのアルバムには人生の正しさと強度がある)が、実感として自分はいまその中にいて、でも、だからこそ、結局は、やっぱり、俺は肯定したい、と思った。生の不思議さと美しさを。哀しい人だっている。一人の人だっている。いつまでも戦争が起こったり人が死んだり、裏切ったり、狂ったり、騙したり、盗んだり、殺したり、そんな中で、おりゃあもう愛の側についたのだ。こっちの道を往くことにする。

すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。