小島信夫・森淳『文学と人生』引き写し

小説を書くということは、大衆に向かってなんか攻めるということ
格言でもよければ、あるいは金言でもよければ、とにかくその話の内部にはいり込んでしまえば、それがひとつの世界となってものになる
物とか、人とかいう言葉を動詞につけると、全部名詞化してくるんです。主語になり得るわけです。(中略)動詞を名詞に造形し、名詞を動詞に還元して書く、つまり名詞から動詞、動詞から名詞に変換するということは、これが人間思考の根源だ
カフカというものはどの小説を見てもうしろを振り返らんですよ。そしていつも不思議なことは、現在からはじめてるんだ。
現在、現在で押して行きながら、アメリカの新聞の書き方と同じなんですよ。第一ページを開いてみますね。そうすると、ある要領を得た記事が大きく出ていますね。ところが、コンテニュード何ページということになって、その何ページかを開くと、その続きがまたある程度くわしく書いてあるんです。またそれがコンテニュードになって、続になって行く。カフカのやり口なんかもこれとよく似ていて
倍率一倍では小さく見えるんですね。それだけの錯覚修正するために一・二五倍しなくちゃいかん
だから、魅了ということは外部から内部への移行である
これからの新しい小説は、論理的に結ぶんじゃなくて、非論理に朦朧と消えてゆくというものが待望されてくると思うんですよ。
あまり早く見とどけてはいけない
喜劇的精神というのは、反法則的精神ですから。
あの世というものを設定しなければ、この世というものは描写できないものですよ。
要素を減らすと、かえって世界が大きくなるんですね。要素が多くなると、緻密にはなりますけれども、世界が小さくなるんですね。
道が変われば世界が変わる。その反対に、世界を変えようと思えば道を変えなくちゃいかん。Aが変化すればBが必ず変化する。Bが変化すればAが必ず変化するということを関数関係といいますね。だから、道というものと世界というものは、関数関係をなすんじゃないか。だから、いきなり世界をきわめようと思うよりも、いったい道というものはどういう性質のものかということを探究したほうが、世界が見事に解明できるんじゃないかと思ったりしたんです。
実は五里霧中というのは絶体絶命をなかにはらんでいるんですね。五里霧中のときに、道は左か右かといわれたときに、こっちも左か右かはまったくわからんわけですよ。そのとき、真心をもって、この道だ、というようなことを決断するわけですね。そうすると、その道じゃないという決断が出てくれてもいいし、そうだといって、そのまま走ってくれてもいいし、走っていけばそこが道になるので、道になれば、この前お話したように世界を構成することができる
創作しているときは、人物やことがらとつきあっているだけで、快感がおきる方へと動いて行くだけのことです。
いずれにせよ、文学は方向づけられた夢以外のなにものでもない
しかし、つとめて小説になるまい、なるまいと思って書いていかれるというと、おのずから事実のなかに小説らしきものが含まれてくるわけですね。

すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。