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神戸⇆長浜往還記24

2024.5.13(雨)
飲んだのでくたびれている一日。神戸へ戻る。ちょうど妻と同じくらいになりそうだったので、合流する。Galaxie500聴く。『Today』。この幻のような音。ミックスだ。ミックスが曲の持つ「ムード」を決める。

フロント・パーソンになるには恥ずかしがりだった私にとってベースは歌っているようで、そんな私にとってベースラインは秘密の歌でした。


2024.5.14(晴)
朝一で書き物終え、スタニスラフ・グロフ『脳を超えて』とっかかる。とんでもない大著。何年かかっても読みきれないだろう。分からない言葉が次々に出てくるのでそれも調べなくちゃいけない。

スタニスラフ・グロフはおそらくユング派の流れを汲むトランス・パーソナル心理学の学者で、チェコスロバキアでLSDをキメながら「意識の作図学」というものを提唱した…
トランス・パーソナル心理学はカール・ロジャーズ(誰?)、アブラハム・マズロー(誰?)、フリッツ・パールズらを筆頭とする(全員誰?)、アメリカのヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントを土台として生まれてきたものである…

こんな感じでキリがない。キリがないが、キリがないからいろいろなことを考えた。たとえば、おそらくグロフという人は、「転生」を当たり前のように信じているだろう。おれは信じているだろうか? おれは世間一般よりは宗教的な人間だと思っている。あるいは神話や象徴について。そういうことを理解している人間だと思っている。でも、おれがおれとして生まれる以前とも、途絶えずにつながっているとは考えていない。考えたいが考えられない。だって肉体は滅びるからだ。死ねばそれで終わり。ストレートに行こうぜ。曲り道は嫌い。でも『笛吹川』や『百年の孤独』、『モロイ』とはその反対ではではないのか?(それこそ『聖書』だって) つまり、ある種の特性のようなものが、その血統の中で、時間・空間を経てもなお、瘤のように浮き上がってくる…
死んでも死んでも終わらない…



いまでは、おれはすっかり曲がり道の中にいる。おれは長浜の人たちとつながりを持つことで、かすかに神戸のおれと長浜のおれに分裂している。電車やそこから見える川・橋は境界だ。おれはいくつも境界を飛びこめて、少しずつ少しづつ現世へ還る。

でもどっちが現世? 夢の世界のおれにとっては現実こそが夢なように、次第にどちらがどちらとも言えない様相を呈してくる。

いまでは、もう昨日のこともはるか昔のように感じられるようになってきた。一日がおそろしく引き伸ばされ、一瞬で終わる。まばたき一つで次の朝だ。
時間に長さがあるというのは錯覚だ。過ぎてしまった「時」は、昨日だろうが、十年前だろうが、同じ戸棚から取り出すことできる。記憶という戸棚。
だから、いまのおれは、十年後のおれが思い出している一瞬とも言えるかもしれない。気づいているか気づいていないか。意識にあるか無意識にあるかだけで、時間は…

練習などして、曲の手入れしたあとで晩は妻と出かける。「文六」へ。いつ来ても最高の居酒屋だと思う。新じゃが煮、卵とニラと豆腐炒め、淡竹とちくわ炒め、エビグラタン、ガーリックトースト、レモン鶏など。完璧に美味い。


すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。