SFTはボランティアか?ビジネスか?ーSFTは甲子園球児です。

去年の今頃、SFTの中で「SFTはボランティアかビジネスか?」という話題が熱い議論を読んでいた。
それから1年が経って、話を効かなくなった為、勝手にもうその話題には決着が付いたと思っていた。
しかし、ある支部の支部長が2020年の今になってこの話題に触れていて
まだこの話題に終止符は打たれていないのだなあと感じた為
ここに私なりに至った結論について記していきたいと思う。

結論から言って、SFTはボランティアだ。SFTの活動も正真正銘のボランティアだ。
さらに言えば、SFTで行っているこの活動をビジネスと呼ぶのなら、
現場や本場で働いているビジネスマンに怒られるか嘲笑されるだろう。
ビジネスごっこにもなっていない大学生のボランティアが調子に乗るなと。

この話をするにはSFTはビジネスに寄っているという話が
そもそもどこからきたかという前提について話す必要があるかもしれない。

SFTがビジネスに寄っているという話は、SFTが回収目標や販売額の向上を目指し
それに受けて、ブランデイングだのマーケティングだの論理的思考だの
カタカナ言葉や難しい用語を使い出し、結果主義的な潮流ができたとこによるだろう。
これらは、普通に生きていたら学ぶことはなく
SFTの合宿などでよく学ぶ内容である為、参加するかしないか
参加してる人の中でもこれにある程度の共感を覚えれるかどうかの違いで摩擦が生まれ
この問題が大きくなってきた。

では、これらのビジネスに寄りたい人たちとボランティアに寄りたい人たちの
主張の差は何があるだろうか?

まず、ボランティアに寄りたい人たちは「ボランティア」を”すること”を目指している。
これは別にこれらの人たちが子ども達のことを考えていないとは言わない。
しかし、これらの人はボランティアを支部で支部員とすることに重きを置いている。
その楽しい過程の中で良い結果が出た場合にはプラスの嬉しさが追加され
あくまで重きは、支部で「ボランティア」を行うことに置かれている。

では、ビジネスに寄りたい人たちはどうだろうか。
ビジネスに寄りたい人たちは「ボランティア」で”結果を出すこと”を、目指している。
これらの人たちは常にSFTの活動において販売や回収の結果を上げることに重きを置いている。
その為、結果をあげるために、ツールとして上で示した物を使いたがる。
そしてこれらの人はこれを使うことを特別視する。
これを使うことがすごいと思っているから、これを行わない支部に強要する。
そのためにこの二つのボランティアマンとビジネスマンには軋轢が生まれた。

簡単に話せば、空腹な人が
食べることを目指すか、そこに美味しい物を求めるかの違いだ。
01で考えるか、そこに程度問題を考えるかの違いだ。

また、ボランティアにビジネスの介入を嫌がる人々は
この「ボランティア」と「ビジネス」という二つの言葉の不和を嫌う。
「ボランティア」のイメージは献身的で自己犠牲的。嫌儲主義で効率とかではなく心で働く。いわばカトリック的な考え方だ。
それに対し
「ビジネス」のイメージは常に自身の利益を追う。資本主義的で常に効率的に最高の利益を狙う。いわばプロテスタント的な考え方だ。
この相反する二つの思考が混ざることを嫌う。特に、神聖な「ボランティア」が世俗的な「ビジネス」と混ざることを嫌うのだ。

私自身、別にこの「ボランティア」と「ビジネス」の不和はどうでもいいため
これ自体はどう腕もいいのだが、そもそもが利益ではなく精神で動くボランティアにとって
この不和による懐疑心は活動へのモチベーションへ大きく関わるだろう。
だからもう一度、SFTが「ボランティア」か「ビジネス」かという答えへの私の解を示す。
SFTはボランティアだ。SFTの活動も正真正銘のボランティアだ。

なぜそう言えるのか。
もう一度SFTの理念を考えてみて欲しい。SFTの活動を考えてみて欲しい。
これについて書くと長くなるため、以前まとめたこちらをみて欲しいのだが
SFTの活動の本質は、大学生にボランティアを促す。「大学生と子どもたちを繫ぐボランティア」なのだ。
このどこがボランティアではなくビジネスなのだろうか?

確かに私たちはマーケティングだとかブランディングだとか論理的思考だとか
一見ビジネスで使うような言葉で、ボランティアでは聞いたことのないような言葉を使う。
しかし、例えば論理的思考について考えて見て欲しい。
論理的思考なんて、いつもの生活で使っている物で。学問的なことを言えば看護ですら使っている。
マーケティング、ブランディングだって同じことだ。
その本質はビジネスではなく、なんらかの「戦略」を練るために、促進するために使うものだ。
例えば、ボランティアでメジャーなところで
赤い羽募金があります。この赤い羽根募金は毎回ボランティアをしてくれた人に対して羽だったりクリアファイルだったり
より多くの募金をしてもらうために戦略を練っている。
SFTも同じことをしようとしているだけなのではないか。
上でいった言葉やツールの表面的なところばかり見ていると、なんとなく違う気がしてくるが実際は何も変なことはしていない。
SFTの人はSFTを特別視というか神聖視しすぎていて客観的に見ることを忘れている人がよくみられる。
客観的に見ればSFTはただ、理念という目標を目指して、戦略を練り、達成するために活動する一般的なサークルだというのに。

言ってしまえば、SFTの活動は甲子園を目指す高校球児達と本質のところでは変わらない。
高校球児達は、甲子園優勝というビジョンに向かって、日々必要な練習をする。
基本的なキャッチボールに始まり、守備練習のノック、打撃練習のトスバッティングなど基礎的な練習をする。
そして、それだけでは勝てないので他の高校との差別化を図るために
基本的な技術を用いて、バントを交えた攻撃練習や相手に向けた守備位置の調整など、勝つための戦略を練っている。
これはSFTでも同じことなのだ。
SFTメンバーは、理念達成というビジョンに向かって、日々mtgや学習をする。
基本的な論理的思考に始まり、アイデア発散のためのデザイン思考、より精度の高いmtgのためのmtg技術など基礎的な学習をする。
そして、それだけでは利用して成果を上げることが難しいから、差別化を図るために
基本的な技術を専門的な知識を応用して、マーケティングやブランディングといった一歩先の、勝つための戦略を練っているのだ。

SFTと野球部は本質的に同じことなのだ。
それを、戦略の部分をWHY(なぜこれを使うのか)ではなくWHAT(何を使うか)HOW(どう使うか)という
ツールという戦略の表面的な部分ばかり見ているから本質を見逃してしまう。

私たちは野球という道でビジョンの達成は目指していないが
ボランティアという道でビジョンの達成を目指しているのだ。

そんな中で、ビジネスだボランティアだを気にする必要はあるだろうか?
野球の試合において、バントは野球じゃない!なんていう人はいるだろうか?
いるとしたらそいつは本田茂治の頭にデットボール食らわせたギブソンぐらいじゃないだろうか。

あくまで私たちはボランティアをするための戦略としてそれらを使ってるだけなのだ。
粒感の違う物を並べて比べることは、論理的思考のできない人がすることではないだろうか。


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