『成瀬は天下を取りにいく』 ーレッツゴーミシガン

元々、この小説は旅のおともとなる予定だった。
しかし、想定よりもスルスルと読み進めてしまうことや
旅自体が想像よりもハードなものになった(そのほとんどは連日の35℃を超える暑さによる)ために、その役割を全うさせることはなかった。
そしてなによりもこの文章が原因だ。
今回の旅は、木曜の仕事終わりに夜行バスに乗り6時間かけて名古屋へと向かうものだった。それ故に初日の朝から私の疲れはマックスであり、とても文章を書けるようなコンディションでは無くなってしまった。
文章が書けなければ読み進めることができない。
夜行バスを降り、真っ先に足を運んだカフェでモーニングセットを食べながら読んだ章がこの「レッツゴーミシガン」だった。
読み終えてから文章を書くまでにかなりの時間を要した。
ちなみに、カフェのモーニングというものは名古屋が発祥らしい。

この章の語り手は、広島から来た錦木高校の西浦だ。
彼は成瀬に一目惚れをする。
前章から約1年の時が経ち、2年生となった成瀬あかりのカルタを見て。
そして友人である中橋結希人に背中を押され、クルージング船であるミシガンに乗船する。
成瀬と会話し、一緒にいることで成瀬の特異性とその純真さにさらに心を奪われる。
しかし、その恋が実ることはない。成瀬は100歳になるまで恋愛を楽しむつもりはないからだ。西浦は特異性に惚れ特異性によって打ち砕けた。

この章における西浦は我々読者と同じ存在だ。
成瀬という存在は、本当に友達になろうとすればかなり厄介で、周りに居れば避けつつ後期の眼差しを送るような存在だ。しかし、小説のようなフィクションの世界ではそれが魅力的に映る。
多分この違いは私(一人称の存在)と成瀬(二人称の存在)以外の他者(三人称の存在)が現実には存在してしまうからだ。
本来であれば、成瀬という存在は現実世界でも魅力的に映る。しかし、自分が関わるとなると自分の周りを取り巻く社会との関係も気にする必要になる。自分がどれだけ成瀬を好意的に捉えても、社会との噛み合いが悪いために離れていくしかない。
この社会に自分を全振りした存在こそ、この小説における大貫なのだろう。
私たちは、成瀬を境界線として線対象に分割される。
成瀬の特異性を好意的に捉える西浦的な自分と、社会的な指標で評価し忌避しようとする大貫的存在。この2人は対照的な存在として描かれているのだろう。

私は、西浦を応援した。よくやった!がんばれ!がんばれ!と。
だが、私が成瀬と世界線を重ねることができないように読者たる私の分身の1人である西浦が、成瀬という存在と世界線を重ねることはできなかった。

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