夏はまだまだ終わらない。

外を歩いていると、蝉の鳴き声が聞こえた。夏の始まりを感じる。
おかしな話だ、蝉の鳴き声なんか聞かずともずっと夏だった。
5月からすでにその暑さで夏の到来を予感し、6月の暑さは夏そのもののようだった。
暑い。もう夏だ。暑いと言い続けていたのに、蝉の鳴き声でもう一度夏の始まりを覚えさせられる。

夏はエネルギーに満ちている。婉曲なしに、冬とは比べ物にならないエネルギーが太陽からは降ってきているし
それを受けた木々や虫、動物たちは他のどの季節よりも活気付いている。人間だって、有り余るエネルギーを抑えきれず、夏は海や山やとそれを発散させるために奔走させる。
夏のエネルギーは私たちこの地球にいる全てのものを活気付かせる。でも、ミトコンドリアが生まれる前、まだ生命が窒素固定でしかエネルギーを得られない時代には酸素が毒であったように
みんなにとってのエネルギーが誰かにとっての毒になることもある。
私にとってがそうなのだ。
夏の有り余るエネルギーが私にとっては毒なのだ。
人間は多くの場合、このエネルギーを発散させたり撹拌させるための対処手段を持つ。
例えば人は海に行く。太陽のエネルギーの届かない海へ入り、自身のエネルギーを海中へと流していく。或いは人は山へ行く。山には大量の生命が存在する。一つ一つの動植物がその生命の機構を動かして生きている。
それ故に山という一律のものとして見た時、それの持つエネルギーに対するキャパシティは広い。それ故にエネルギーの有り余る人は、山の中でそれを流していく。

しかし、私はそのエネルギー発散機構を持たない。
私は海に行かないし、山にも行かない。
それ故にただ、エネルギーのコントロールされた室内でただ冷たい風を受けて耐えるのだ。
この世界には2種類の人間がいると、あえて分けるというのなら
きっとこのエネルギーコントロールを自身で行える人間か、行えない人間かの違いだろう。
私はそれをできることができない。この同じ地球、東京で生きていくには私は劣等種なのだろう。しかしそれでも私という人間が滅んでいないのはそれを外的にコントロールし、エネルギーを受け発散するのではなく、そもそもエネルギーを受けないという方向の環境を受け入れてしまっているからだろう。
クーラーは僕のような夏を耐えられない人間を生きながらえさせてしまっている。僕はこれからも夏が与えるエネルギーから逃げながら生きていく。

夏はまだまだ終わらない。

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