『成瀬は天下を取りにいく』ー線がつながる

小説は往々にして後半になるにつれて加速する。
これはもちろん実際にページめくりが加速するなどというものではない。いや、もしかするとページめくりすら加速しているかもしれない。
前提を理解しているが故に細かい情報は省略されていくのかもしれない。
しかし、今私が言及したいのはそのことではない。
小説を読み進めるにつれて、小説の世界に没頭してしまい、私の脳では自我よりもビジョンを描くことが優先される。前半は意識的に処理していた情報が無意識的に処理されるようになる。そうして本を読んでいるというよりは夢を見ている様な心地になる。脳だけで視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚が完結する。まさに夢と同じ様になる。夢は8時間という睡眠時間を20〜30分程度の体感時間にしてしまう。夢は意識を置き去りにして時を加速させる。そうなってしまうのだ。

しかし、この章ごとに感想を書くという行為はその没頭を妨げる。
この『線は繋がる』を読み終えた時もそのまま続きを読みそうになった。そのまま没頭しそうになった。
しかしそれは妨げられた。
正直、この文章を諦めて次を読み進めようとすら思った。しかし、私の自我はまだ死んでいなかった。

まだクライマックスが訪れているわけじゃないため断定できるものではないが、章が終わるたびに感想を書く様なことをしていなければ、私はこの小説を一定評価していたと思う。1〜2章から3〜4章への場面転換。成瀬を直接的に描くのではなく、それぞれが偏見を持った個人個人の多様な視点から外郭を描くことで成瀬という人間の一貫性を立体的に描いていること。成瀬というキャラクターに興味を持つには十分だしきっとそうなっていた。
しかし、今回のそうにひとつひとつを分解して読んでしまうと、それぞれの章に対する物足りなさを毎度感じてしまう。
確かに、それぞれの章で成瀬もいう人物を魅力的に魅せることには成功しているが、それ以上のものがない。3〜4章ではそれぞれ成瀬とは距離のある間柄の人物が登場し、心が動く物語が語られる。しかしこの物語には感動も意外性もない。どこかで聞いたことがあり、どこにでもある物語が淡々と描かれる。
読者たる私の心を動かすのは、カメオ出演する成瀬だけなのだ。
ついに残り2章となった。
ここまでの流れは、1〜2章で成瀬と島崎の物語。2〜4章が成瀬とは少し遠い人たちの物語となった。
故に残り2章は、成瀬自身によって語られる成瀬の物語になるのではないかと期待する。
成瀬が点と点を線で繋いでくれることを期待する。

最後に心に残った文をいくつか残す。

成瀬が朝礼で賞状をもらったある日、クラスのリーダー格だった凛華と鈴奈が、成瀬のロッカーから黒い筒を取り出していた。

成瀬は天下を取りにいく

名前の現代感がいい。
キラキラネームにはならず、でも昭和や平成初期にはいなかった、平成後期から令和の名前だ。

ニンテンドースイッチを封印した甲斐があった。

成瀬は天下を取りにいく

「ありがとう」の文字が入ったピカチュウのスタンプで無難に応じ、

成瀬は天下を取りにいく

なんだろうこの気持ち。小説の中に現代的なものが入っていると作為的に感じてしまう。嘘くさく見えてしまう。
小説というものは、自分の中のイメージとして「公的」「大人」「過去」といったイメージがあるため、逆に「私的」「若者」「現代」が入れ込まれると違和感がすごい。
60を超えた市長が「私はアニメが好きなんですよ。」と言ってアニメを語るのに対し、「若者から好かれようとしてんな」と思ってしまうことと似ている気がする。

これまで自分をコミュ障だと思ってきたが、単に話が合う相手がいなかっただけかもしれないと思った。

成瀬は天下を取りにいく

「かえでって、わたしのことどうでもいいと思ってるでしょ」

成瀬は天下を取りにいく

思春期だ。大貫は多分成瀬なんかよりもずっとイタい子だ。幼少期から他者とのコミュニケーションが希薄で、故に俯瞰的に見ている様で、その実なんも見えていないタイプの子だ。でも、それもまたいい。大貫はこうしてうまく青春とは馴染めずに高校生活を終えるのだろう。東京大学を言い訳にして。

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