成瀬は天下を取りにいく ー階段は走らない

本当に読みやすい本だ。
するすると読んで行ってしまう。
多分、このnoteを書いてなければ3時間やそこらで読み終えてしまう。

今回の主役はこれまでの成瀬と島崎ではない。
ある男、敬太の物語だ。
敬太は成瀬や島崎と同郷の推定42歳の男性だ。就職後は大阪で働いているが、幼少の思い出がつまった西武大津店の閉店をきっかけに動き出す。同じく西武大津店に思い出にあり、一緒に遊んでいたマサルと思い出を語り合う中で、自身が小学校を卒業してからちょうど30年であることに気づき同窓会を企画する。しかしコロナの波はその開催を許さず企画は頓挫する。それでも小学6年生の途中に引越してしまい以降関わりが断たれてしまったタクローともう一度会うために、敬太は同窓会用のホームページを作る。ホームページには次第に人が集まり、中で運営されるBBSも活性化していく中で「タクロー」というハンドルネームの人から投稿が行われる。西武大津店の閉店の日に屋上で集まろうと言うものだった。敬太もマサルも半信半疑ではあるものの、当日そこに足を運んでみると、そこにはタクローがいた。3人は再開する。

第3章にして、突然場面は転換する。
唐突に語り手が変わり、語られる物語も変わる。
前章で規定したルールは放棄される。
しかし、全く別の話ではない。所々で成瀬と島崎の痕跡が現れる。
この物語の時間と場所は、成瀬が西武大津店に足繁く通っていたのと同じタイミングなのだ。
そして成瀬と同じように、それなりに閉店に寂しさを覚えている。
この章では成瀬と敬太を結びつける1本の線が残される。成瀬の行為に初めてSNS上で反応したタクローこそが敬太だったのだ。
多分、この章はこれから膨らむ成瀬の物語の序章だ。
急に膨らむとそれに物語が耐えられなくなってしまうから、序章としてこれから成瀬に関わる人間の話を挟む。
それこそがこの章だった。

正直、この物語自体に特別な感情はなかった。話としてはよくあるものだし、敬太に特別な印象を持つ事はない。心理描写が細かいわけでもない。
ただ1話、今後につながる話を見せられているな。そんな気分だった。

最後に心に残った一文を。

「うちの事務所もコロナ対策でビニールカーテンとかアクリル板とか付けたんだけど、意味あるのかな」  向かい合う俺たちの間は透明なアクリル板で仕切られている。

成瀬は天下を取りにいく

この一文で、僕たちが過ごしたコロナ禍と言うものが過去となっていることを改めて感じた。
そして同時に、コロナ禍が小説の中に保存されている奇妙さを感じた。
僕が読む小説というものは大抵過去か未来の話で構成されていて、時代性はその小説の時代に依存する。しかしこの小説は、今に現在に最も近い過去であるコロナ禍を描いている。
だから過去ではなく現在の時代性を色濃く反映している。現在を生きる僕たちが気づかないほどに。
僕たちは戦争を知らない。だから戦争を文で読んでも現実味はないし、みんながお国のために命をかけていたと聞けば、本当に?信じられない!となる。時代性を真に理解できないからだ。他方で時代性を理解できないからこそ、違和感を感じることができる。
戦争という時がいかに小説に詳細にパッケージングされていようと、僕たちがそれを空気として、その場の空間として想像しきれないように、コロナ禍をすぎて自我を得た子どもたちは、この"ビニールカーテン"が常に隣にいる日常を想像しきることができないのだろう。
きっと10年後、この小説が時代から切り離されて過去になった時、この文章を読んだ中学生が想像するこの描写は、僕たちの想像するそれとは全く違うのだろう。そう思わせてくれる一文だった。

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