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映画「西湖畔に生きる」を見てメソッド演技のリスクについて考えた件

タイトルのとおり9月27日公開の「西湖畔に生きる」(以下、西湖畔)先行上映会に行ってきました。顧暁剛(グー・シャオガン)監督が来日し上映後トークもありとのこと。
開催が急だったので、西湖畔を見る前に監督の前作「春江水暖」を見る余裕がなかったのが残念。
以下、ややネタバレありなので未視聴の方はご注意ください。


あらすじ

杭州市。
最高峰の中国茶・龍井茶の生産地としても有名な西湖。そのほとりに暮らす母・タイホア(苔花)と息子・ムーリエン(目蓮)。父のホー・シャン(何山)は家を出て行方がわからず、10年になる。タイホアは山の美しい茶畑で、茶摘みの仕事をしながら、ひとり息子を育て上げた。ムーリエンはもう大学卒業の年だが、仕事がなかなか見つからない。ようやく見つけた仕事は詐欺まがいで、仕事は続かず、無職になってしまう。一方、タイホアも、茶畑の主人チェンと懇意になったことで、その母親の逆鱗に触れ、茶畑を追い出される。
そんな時、タイホアは怪しげな「足裏シート」を販売するバタフライ社に出会う。その実態は違法なマルチ商法だった……。彼らに洗脳され、別人のようになってしまうタイホア。ムーリエンは、母をなんとか違法ビジネスの地獄から救い出そうと一線を超える決断をする……。
公式サイトより)

メインキャスト

ウー・レイ[呉磊] ⽬蓮/ムーリエン役

息子役


ジアン・チンチン[蒋勤勤] 
苔花/タイホア役

母親役

感想

夫に捨てられ、身を粉にして働いても一向に報われない母親。働いていた茶葉農園をクビになったことでマルチ商法にはまってしまう。しかし彼女にとってそこは己の承認欲求を満たしてくれる場でもあった。
それに対して詐欺集団に絡めとられ変貌してゆく母を必死に守ろうとする息子。両者の死闘がこれでもかと描かれるシーンは圧巻というより地獄そのもの。

まずは良くできた映画だと思う。映像はとても美しかったし、山水画のような映画という監督の目論見も成功しているように思えたし、とにかく俳優の演技が凄まじかった。映画を評価できるほどの力量はないおばさんだけど、一点を除けばいい映画だったねで終われたと思う。
というわけで、どうしても評価できないその一点について。

※以下は個人の主観的見解です。他にも様々な見方があると思うので、ひとつこういう見方もあるんだなくらいにとらえていただければ幸いです。

上映後インタビューで上記の死闘シーンのひとつを司会者が映画「ジョーカー」に例えていて、それは筆者もまんま思ったことなのだけど、何かが違うと引っ掛かりもした。
「ジョーカー」では、主人公ジョーカー演じるホアキン・フェニックスがジョーカーの狂気を意図して演じていたように思う。だって映画前半ではまだジョーカーは市井の人なわけだけど、映画が進むにつれバットマンの宿敵「ジョーカー」となっていくことは言わずもがなだし。ホアキンも役に入り込んでいただろうけれど、演じる役柄を客観視する余裕がどこかで感じられた。だから、狂気を帯びたジョーカー含むストーリー全体を観客である筆者もある程度は俯瞰して見ることができたように記憶している。結果が分かっていたから。
いっぽうで西湖畔では、母親役の蒋勤勤も息子役の呉磊もまさに迫真の演技なんだけど、2人から感じられたのは当事者の苦しいほどの切迫感。
映画の出来栄えに2人の演技力が大きく貢献したことは間違いない。けれども、監督が地獄と称した数々のシーンに筆者は猛烈なストレスを感じた。まあ「ジョーカー」と違って行き着く先が見えないというのも一因だけれども、他の映画でこんなストレスを経験したことはあまりない(筆者はホラーもオカルトもサスペンスも割と平気なほう)。
上映終了後の監督インタビューで、俳優に事前情報を与えずにそれらのシーンを撮影したことやそれによって俳優が素の状態から文字どおり狂気に至ったこと、迫真の演技どころか真実狂気のシーンだったということ、これらの舞台裏の話を監督の口から聞いてストレスの所在がわかった気がした。
私たち観客が見ていたのは狂気に至る人間を演じる人ではなく、人為的に作られた状況の中で現実に狂気に至る過程におかれた人たちだったのだと。

メソッド演技のリスク

精神を病んだり自殺したりするハリウッド俳優はあまたいるが、その中でもメソッド演技を長く続けたために精神にダメージを負ったと思われる人が多くいることはよく知られている。
メソッド演技とは日本で言ういわゆる憑依型の演技手法。役柄に心身ともに完全になりきって演技する方法で、数々の名俳優を輩出したことで有名なニューヨークの俳優養成学校アクターズスクールが、その発信地として有名。
ところが、このメソッド演技を得意とする俳優が次々と精神を病んだことで問題視されるようになり、現在では賛否が分かれることに。
「メソッド演技法」でインターネット検索すると関連情報がたくさん出てくる。

メソッド演技のリスクを知らずとも、様々な役を入れ替わり立ち替わり表現する俳優という仕事が、人間の精神に大きな負担になることは間違いない。
今日は天使のような善人を演じ、明日は悪魔のような殺人鬼を演じる日々を繰り返していたら、本当の自分がどういう人間だったのか思い出せなくなるだろう。

上映後に監督が語った、呉磊が身体的な痛みを経験して演技の糧にしようと小さな手術を麻酔なしで受けたという逸話。これを聞いて悲しくなったし恐怖ですらあった。
実際に経験しなければその演技ができないというなら、人を殺さなければ殺人鬼を演じられないことになるからだ。そして役を演じるために役者が自らの心身を犠牲にすることは、彼女・彼らのその後の人生に大きな代償をもたらしはしないだろうか。

大好きな中国ドラマ・映画。それを作る人たちへ

ここまでこの映画を批判するようなことを散々書いてきたが、もちろん素晴らしいシーンもたくさんあった。
特に監督が山水画と称したように茶畑をドローン撮影で大きく俯瞰するシーンは圧巻だった。「眠っている山を起こす」ために人々が茶畑のあちこちに散って行う呼びかけは、まるで自然に対する人間のシュプレヒコールのようで(実際は優しい呼び声)、さすが農民・労働者の国と感じ入り、見ているこちらも一緒に叫んで山を起こしてみたくなった。

呉磊はドラマ「琅琊榜」の飛流役でその存在を知って、以来大好きな俳優のひとり。まだ20代と若い彼の演技を長く楽しませてもらいたいと思うし、それ抜きでもシンプルに健康でいて欲しいと、成長する彼の姿を見て親戚のおばちゃんのような気持ちでいる。
今回「西湖畔に生きる」を見て、中国の映像制作の現場に大きな不安を抱いてしまった。薄々感じていたけど正面から考えずにいたことを、今になって気づかされたというほうが正しいかもしれない。
呉磊に限らず、大好きな中国の俳優たちにはこうした彼ら自身を傷つけるような演技法の危険性に気づいて欲しいし、業界関係者は俳優を守るための行動を忘れないで欲しいと切に願う。
西欧のやり方が正しくてそれを踏襲しろというわけではなく、中国にあったやり方で、俳優にとっても制作陣にとっても安全で、それでいて作品の質が向上するような方法を見つけていって欲しい。
そんな中国ドラマ・映画を長く見続けたいし応援したいと日本の片隅にいるおばちゃんは思うのであった。
おしまい。


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