魔法の言葉

私は社員研修所に勤務している。そこでは以前、新入社員研修やスキルチャレンジなどの長期研修のクラスを毎年受け持たせてもらっていた。

短ければ1週間、長ければ3か月ぐらいの間、毎日のようにクラスの受講生と向き合うことになる。ある程度の時間を共に過ごした受講生を毎年送り出していく中でいつも感じていることがあった。それは、自分の受け持ったクラスの受講生がこの先配属される職場で幸せな会社生活を送れますようにということだ。

私はクラスを受け持つ一方で自分も教壇に立っていたので、「1つでも多くの知識やスキルを身に着けてもらうには自分がどんな講義をしたらいいのか?」ということについてよく考えていたと思うし、長期間来てもらっていると必ず何らかの悩みを抱えこんでしまう人が出てくるので、何がしてあげられるわけでもないときも多々あったけれど、それでも寄り添う気持ちが相手に伝わるように努力をしてきたと思っている。

一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、相手に対する思い入れも深くなるのだ。長期研修の最終日、いつも受講生に伝えていたのは「新しい職場でかわいがってもらえるように頑張ってください」ということだった。

どの受講生にも平等に接することができれば一番良いのだとはわかっていても、どうしても気になって目をかけてしまう受講生や頻繁に声をかけてしまう受講生がいる。
一方で、何となく距離を取ったまま最終日を迎えてしまう受講生もいる。

私が送り出すときに気にしている「かわいがってもらえそうかどうかの境目」がここにある。一応断っておくが、前者が人間として私の好きなタイプだからとか優秀だからとかそういうことではない。性別も性格も、もちろん容姿(笑)も全然が関係なく、私の中では安心して送り出せる受講生とそうでない受講生が必ずできてしまう。
なんでだろう?といろいろ考えてみて、多分これだろうと思っていることが1つある。それは、「ありがとう」や「ごめんなさい」を伝える力があるか無いかだと思う。

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ありがとう:
この言葉は、人と人を繋ぎ易くする効果がある。

私だけではないと思うのだけど、誰かのために役立っている実感って大切な感情の1つではないだろうか。
「あなたがそうしてくれたから助かったよ」「嬉しかったよ」を伝えるこの言葉は、受け取った人の心に栄養を与える。「この人のために何かできる時があったら、またしてあげよう」っていう明るい気持ちに確実に繋がるのだ。

自分のしたことが本当に相手のためになったのかどうか不安だった場合は特にだ。自分は間違っていなかった、役に立てて良かったと感じられることで肯定感が得られ、理想の自分に一歩近づけるような気がする。

他には、陰でこっそりしてくれたことに対して、「気づきましたよ、嬉しかったです」を伝える「ありがとう」も貴重だと思う。気づいてくれて感謝の言葉をもらったら、心に届く栄養量が全然違うのだ。

もともと、「ありがとう」を伝えた人は何かを得たことに感謝をしたのだろうから、win-winだと言える。そうなれば当然その相手との関係は心地良いものになり、繋がりも強いものになっていく。発することで他者との関係をスパイラルアップさせる特別な力がこの言葉にはあると思う。だから、必要な時に素直に口にできることは、かわいがってもらえる理由の1つになりえると思う。

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ごめんなさい:
何かに失敗したり間違ったりした時、素直にこの言葉が出せるだろうか。相手にもよるし、状況にもよる。普段は素直に言えるのに、その場面ではどうしても口から出なかったということもあるかもしれない。

会社で仕事をしていてよく思うのだけれど、この言葉が必要なタイミングで素直に出せる人は、私からはとても大きく見える

失敗をした時に意地を張ってしまったり、自分以外の何かのせいにしてしまったり、素直に認めて報告すべきだったと感じた場面が私にもたくさんある。

でも、そういう場面をたくさん越えてわかったこともある。例えば、自分が問題を引き起こしてしまった時、誰かのせいにして上司に説明をしてしまったら、コトは何倍、何十倍にも膨らむのだ。
失敗を押し付けられた「誰か」の反感を買うことは間違いないだろう。
そして、知らないで済んだであろう人にまで話が伝わって行って、さらに苦労して取り繕わなければならない。
自分の中に「本当は自分が間違ったのに」という特大の情けなさを抱え込む。ましてや本当の原因がどこにあったのかを周囲が正しく認識してしまったら、起きたことへの責任だけでなく、素直に自分の間違いを認められなかった私の人間性についても相手が考えるきっかけを作ってしまう。

そんなことなら、問題が小さいうちに自分の悪かった点を反省し、周囲に伝えたほうがマシだったと思うかもしれないが、この状況になってからでは遅いのだ。

できれば失敗したことを周囲にわからないうちにどうにかしてしまおうと思う時もある。誰だって失敗したことを知られたくないという気持ちがあると思う。独力で何事も無かったように取り戻せるならその努力も大切だ。

肝心なのは影響範囲の見極めだ。少しでも誰かにマイナスの影響を与える状況ならば、できるだけ早く「ごめんなさい」を伝えたほうが良いと思う。相手だって状況を知っているのと知らないのではいろいろ事情が違うのだ。

どんな道を選んだとしても、自分を取り繕おうとすればするほど、周囲からは自分が小さく見えるだろう。だからこそ、影響範囲が小さいうちに自分の非を認めて伝えることが大切だと思うのだが、失敗を自覚して少なからず動揺しているタイミングで、素直に表現するのは難しく、それができる人は私から見れば大きく見えるのだ。

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「ありがとう」と「ごめんなさい」は、魔法の言葉
これは、息子が保育園に通っていたころに読んでいた子育てマンガで強く印象に残った言葉だ。生後8か月から保育園に入れられた息子は、物心つく前から一日の大半の時間を同じ年代の子供たちの中で過ごしていた。

時々ではあるが、お迎えに行くと先生が待ち構えていて、今日あったことを聞かされることがあった。
保護者はいつだって側で見てはいないから、先生から聞いた話だけで何が起きたのか、何が問題だったのか、相手がある時には相手が悪いのか自分の息子が悪いのかを考えなくてはならない。

家までの帰り道で、そのことを息子にも聞いてみる。出来事そのものをすっかり忘れているときは良いが、小さい子供なりに悔しい思いなどを我慢していることもあった。気持ちを晴らしてあげることも大事だったし、息子が悪かったことは息子の年齢でもわかるように伝える努力もした。

息子が理解できた後、気になるのはやはり明日以降のお友達との関係だ。
話の締めくくりに伝えていたのは、「明日、ありがとう(もしくはごめんなさい)ってお友達に伝えようか?」という具体的な行動ではなく、「『ありがとう』と『ごめんなさい』はお友達と仲良くするための魔法の言葉だよ」だ。私の気持ちが息子にも伝わっていれば、親に言われたからではなく、自分の気持ちを言葉で表現してくれていたのではないかと思う。

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ところで、そんな風に育てたつもりの息子(高2)の他に、我が家にはもう一人家族(50代男)がいる。この2人、ほとんど「ありがとう」や「ごめんなさい」を口にしない。息子は上に書いたように育てたのにも拘わらずだし、主人に至っては、もはや今から矯正をすることも難しいだろうと思わせる「昭和の男」なのだ。

だから時々、「こんなに頑張ってあげているのになんで感謝の言葉1つ言わないわけ?」などと腹が立った時には、こちらから主人や息子に「ありがとうは?」とけしかけて、無理やりの「ありがとう」を受け取ってちょっとだけ機嫌を治したりしている。

もう矯正を諦めた昭和の男は仕方がないとして、まだ改善の可能性がある息子には、将来彼女や奥さんと楽しい時間を過ごしてほしいし、職場でもかわいがられて欲しいと心から思う。

先日、「この場面では一言何か言うべきでは?ここで何も言えないような男はモテないぞ」と、どうしても伝えるべきだと思ったことがあり、ものすごく久しぶりに「『ありがとう』と『ごめんなさい』は、魔法の言葉」と言ってみた。

すると息子はこう言った。「『ありがとう』と『ごめんなさい』と『それな!』は魔法の言葉

その反応を見て、私は小さな息子に繰り返し言っていたこの言葉が息子の中にまだ生きていることを感じた。

一瞬、「それな!」って何よ?と思ったが、思い当たることがあった。
いつからかわからないが、息子に「それな!」って言われたこと、結構何度もあったんじゃない?

息子のためを思って何か一言伝えた時などにそう言われて、正直「上から目線で生意気だ」と思っていたのだ。もう何を言った時にそう言われたのかも思い出せないけれど、その時息子はそういう気持ちだったということなのだろう。

急に顔がニヤニヤしてしまったかもしれない。めったに気持ちを表現することがないと思っていた息子が意外に表現しているのかも?と思えたことや、まだ覚えてくれていたことが本当に嬉しかった。

今まで自分の中では

表現できない息子と、表現することの大切さを説く母

のような構図になっていたけれど、本当は

自分なりではあるが表現している息子と、それをキャッチできない母

だったんだね。
ちっともわかってなかったよ。

でもね、照れ隠しに敢えて続けるなら「伝わる言葉」で表現しないと伝わらないんだぞ・・・。かわいがってもらえる人間になるにはまだまだだな。

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