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10月6日(日)晴れのちくもり

この前の金曜日から、友人と泊りがけで旅行に行っていた。さほど遠くないし旅行のつもりはなかったが、外泊しているし、近くの滝を見に行ったりもしたので、これは旅行と言っていいものなのだろう。とても楽しくて、そこでいくつかのことに気がついたのでメモしておく。

のびのび暮らせる環境について。

東京にいると、「街」のよさにも惹かれる。が、自分がのびのびと気分よく過ごせる場所は、自然の多い環境だろうと感じた。人が少ないと酸素が余っている感じがする……。

実際のところ、自分はそれほど食にこだわりもないし、華美なスポットも大して好きではない。文化的なものには「20代になるまで気づかなかった・得られなかったもの」としての憧れはあるが、その実、例えば美術をものすごく渇望しているわけではない。これはおそらく視覚情報にそれほど向いていないのも関係していると思う。音の情報のほうが自分にとって重大だ。

わたしは周りの価値観に染まりやすい。それによって、あまりその自覚はなかったが、なんとなく上記のようなものを自分もほしい気がしていた。しばらく電波の悪いところにいてみて、自分と友人だけがいる生活をしてみたら、自分にとって上で書いたようなものは不可欠というわけではないんだなとわかった。

ではなにが必要かというと、自然があって、狭苦しくなくて、良好な関係の他人がいること。できれば本がたくさんある場所へのアクセスがよいと嬉しいが、これもどうしても、というわけではない(実際、この期間は本を読まなかった)。

多分すごく重要なのが、人と共にいることだ。食べるものを一緒に考えて買い物に行ったり、たまに同じものを見て感想を言い合ったりするのは自分にとって本当に大事なことなんだと思う。なんとなく、1人で楽しくなれなくては、という思いでいたけれども、自分はそれに向いていないんだと思う。そして、それはそれで、いいんじゃないかと思う。

別にいつもべったりがいいというわけではない。寝るときには、多少の気配はすれど視界に入らないような位置関係でいたいし、1人になりたいときもある。でも、わたしにはそれほど、1人の時間は必要ないんだろう。

対等な関係の人と共に暮らすのは楽しい。対等な大人数での共同生活は大学時代の寮で経験し、これも非常に楽しかったが、対等な1対1での共同生活も自分は好きだとわかった。

今回の期間を通じて、自分はそこまで文化的(言い方が難しいが、ハイカルチャーが好きとか、位の高い感じがするとか)でも都会的でもないし、1人で楽しくなる人でもないのだな、ということをすごくフラットにとらえられた。これは向き不向きや現状の性質の話なのだと素直に感じた。考えた結果というより、単純に自分の状態がよくなったことからそう理解した。

世論と違っていても、自分にとって重要なことはある。わたしにとってのそれは、おそらく多くが人と人との関係についてのものなのだろう。

例えば、自分がどういう人となら心地よくいられるのか、というパートナーシップの問題も非常に重要だ。それが自分を支え、生活を楽しくするものになりうる。

自分にとって他者が本当に重要であることに気づきつつも、なんとなくそれに卑小さを感じてきたが、そう感じずにいられる環境をきちんと作っていきたいと思った。

おまけ:生活が充実していれば、わたしは仕事や恋愛をしなくても、つまり瞬間的に強烈な刺激がなくとも、十分に楽しいということがわかった。これはいいことだと思う。環境次第では料理や掃除、洗濯のようなことも好きになれそうだった。自分のためのよりよい場所を見つけていきたい。

意図せずしていろんなことが考えられて、よい休暇になった。

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