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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」について

 「エヴァンゲリオン」について、TVシリーズを通しで観たのは2回ほどだし、旧劇場版と新劇場版の各作品も一応劇場では観たけれど、何度も観返したり、あれこれと考察を読み解くほどの熱心さはなく、ファンと言えるレベルですらないのだが、それでもTV放送開始から約四半世紀に渡り紡がれてきた稀代のアニメ作品も本作「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」をもってようやっと然るべき着地をすることができた…という言葉では足りない、「エヴァンゲリオン」と名の付く全ての物語を引き受けた上で、ある種の福音とともに呪詛が解けたと形容したくなるような感慨深さを覚えたのは確かだった。

 そういった前提で、特に感心した点を三つほど記すと(ネタバレしてます)

①第3村の描写について、ポスト・アポカリプス設定の生活感を強化するための細部に対する詰めが徹底されていることに加え、そこで生活する人々の喜びを主とする感情にレイというイノセンスな存在が触れることにより新鮮味溢れるリアクションと言語化が施され、おかげで丁寧かつ分かりやすい事象に昇華し得ている。そしてこれらがクライマックスの説得力に繋がることとなる。
 レイアウトに関しても、ハイアングル、ローアングル、クロースアップを多用することで、世界をより立体的、実存的に受け止めることができるし、この辺は庵野監督の持ち味、ひいては日本映画ならではの良さなども出ていると思う。

②碇ゲンドウについて、そのモデルは庵野監督の師匠格である宮崎駿であるということもまことしやかに囁かれてはきたが、本作を観ることで、庵野監督自身のパーソナリティが色濃く反映されているのではないかと感じ入るに至った。
 こちらもよく言われるように「エヴァンゲリオン」は私小説的な作品であるとともに、それらは主にシンジの内面独白により支えられきたと認識していたところ、本作の終盤における人類保管計画のモチベーション、すなわちゲンドウの妻ユイに対する想い(自体はTVシリーズから不変)の吐露は、まさに私小説的であり、そこが強化されるほどに普遍性も増すこととなる、この辺のバランスは見事なものである。
 加えて、第3村におけるとあるシークエンスにおいて、柱に「シュガシュガルーン」のポスターが貼ってあったり、レイが住人から受け取る絵本の作者が安野モヨコであったりという念の入れようを鑑みれば、庵野監督の妻となった人の存在が特別なのものであることは推察できるし、ゲンドウのユイに対する狂的なまでの愛情と喪失の深さをより前面に押し出し、説得力を持たせるものとするには庵野監督自身の結婚という経験が必要不可欠な要素であったのではないだろうかと(勝手ながら)想像している。
 そして、宇多田ヒカルの「Beautiful World」であるが、これまでシンジのことを歌ったものだと思っていたのに、本作の最後の最後で使用された際、思い出していたのはゲンドウのことであった。

③メタフィクション演出について、本作クライマックスにおける簡素な3DCGの使用(特撮作品に対するオマージュ)、突然挿入される原撮、さらにエンディングにおける実写映像に貼られた作画によるキャラクターなど、想像をはるかに超える徹底的なものであった。
 メタな演出に関して言えば、実写映像による映画館の客席、庵野監督に対する殺害予告を含むネットの書き込みなどが挿入される「まごころを、君に」も強烈であったが、そこに感じられた怨嗟や諦観といったネガティブさと本作のそれから受ける印象は全く異なる。
 眼前にあるものは、あくまで作り物/フィクションであることを殊更に強調することは作品世界への没入を阻害しかねないリスクを伴うわけだが、その敢えての意図に関して言えば、詰まるところフィクション作品への愛情そのものと解釈できるのではないだろうか。
 ハードな日常にあってフィクションに救われる、味気ない日常にあってフィクションだけが彩りをもたらす、といった経験はないだろうか。実人生の中で触れる人物よりも虚構にすぎないフィクションの登場人物に対し、より親しみを感じてしまう、といった経験はないだろうか。
 リアル/フィクションの境界、ありていに言えば絶対不可侵領域の打破、劇場を出て本作に思いを馳せること、それらが永続的となること自体が本作を終劇とさせる最後のピースである、自分は本作のメッセージをそのように受け取った。
 このテーマに関しては、庵野監督の実写映画「式日」でも繰り返し触れられており、また、女性に対する憧憬、畏怖、コンプレックスなどがないまぜになったような視点、私小説的作風はもう一つの「エヴァンゲリオン」と言っても過言ではなく、正直、以前観た際には、その赤裸々さに閉口させられたのだけど、今観返すとまた違った感想が持てるかもしれないと思っている。

 ここまで書いておきながらではあるが、不満点もあったので記しておく。

①関西弁のイントネーションが耳障りでしかない。こういった形での作品世界への没入の阻害は嬉しくない。

②第3村の日本的な風情あるシークエンスのBGMとして英語詞の曲が使われるセンス、クライマックスで松任谷由実が使われるセンスはあまり好きになれない。

③真希波マリの「〇〇にゃ~」って語尾には最後まで違和感があった。