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「開かれた」学びを育む「関係性」:有用性を超えて

皆さんこんにちは、シェアスタッフのひらっちです!

さて、先日のStudy Talk Vol. 2を経て提示された問いは以下の3つでした。

教育というものの根底にあるのはどのような価値なのでしょうか?
教育をめぐってどのような価値が対立しているのでしょうか?
そもそも人は社会とどのように向き合って生きていくものなのでしょうか?

今回は私たちにとってのShare Studyはどのようなものなのだろうか、上記の3つの問いに基づいて考えてみたいと思います。

教育を司る3つのことば

「教育」という営みは一体何のために行われるのでしょうか。教育哲学者の田中(2012)は、現代社会において人間の生は、主に「有用性」「自律性」「関係性」という3つのことばから表されると述べ、その3つの生の様態を司ってきたのが教育である、と概念を整理しました。これらは互いに疎遠なものではなく、強く結びついていますが、以下に整理をしておきます。

有用性:国民形成

西欧の近代教育や現在の学校教育の起源は、国家にとって「有用」な人間を育てることにありました。それは、産業革命により家内制手工業から工場労働へ生産手法が変化したこと、工場がある都市へ人口が流入し、昼間子どもが街を放浪するようになったことなどの背景があり、教育はすべての子どもを国家に資する「国民」に育て上げること、すなわち「国民形成」であるとみなされてきました。ここでいう「国民」は、彼らの能力に応じて選抜されたり、特定の社会的地位に配置されたりする「有用な人材」であり、国民形成論が根底に置く価値が「有用性」です(田中 2012)。

自律性:人間形成

有用性を基礎にした国民形成に加え、近代教育学は「人間形成」もその射程に入れてきました。例えば、教養の元の訳語としてあてはめられることが多いドイツ語の「Bildung(陶冶)」は教育の定義としても用いられ、有用性の国民形成よりも深い意味合いを伴っていました。これらの一連の議論は「自律性」という人のありかたを強調し、「人の機能としての属性(能力・業績)よりも、人の存在としての様態(人格・人間)を重視してい」ます(田中 2012, p.9)。理性をもってして自分の感情、本能をコントロールできる人間、それこそが人間の目指すべき姿であり、それは教育によって成し遂げられる、ということです。カントの道徳に対する考え方などが例として挙げられます。

関係性:教育を取り巻くもう1つの価値

最後は「関係性」です。ここでの関係性とは、先の2つとは少し性質を異にしており、教育の目的ではなく、他者とのかかわりの中で人間が生きることや教育という営みを根底から支える概念として語られています。関係性は、「『肯定する』『企てる』という判断を可能にするような合理的理由を探すことなく、ただ端的に自分・他者・世界を肯定し未来を開く予兆的契機」だと田中は述べており、すなわち「他者との無条件かつ肯定的なかかわり」だと言います(田中 2012, p.10)。これは社会学や心理学でいう「社会関係」「人間関係」などの人間の位置関係(近接さ、親密さなど)を表したものではなく、人間が自分で自分を絶えず更新していくための根幹をなすものであり、ここでの教育とは、田中はルーマンの概念を借り「個々人の自己創出の支援としての教育」としています。親から用意された安心・安全な空間など、他者から自分へ無条件で提供されている関係性という台座の上に立っているからこそ、人は自分の世界を広げたり、何かにチャレンジしたりできるのだというわけです。

教育をめぐる価値

機能的分化社会と生産性

先述の価値を見比べると、現代社会においては有用性に基づく価値判断が頻繁になされているといえるのではないでしょうか。ルーマンは現代社会を「機能的分化社会」と形容し、何らかの目的にとっての有用性(役に立つかどうか)を基準に様々なものが評価され、あらゆるものがそれぞれの位置に分化して配置されていくと主張しました。このような世界では私たち人間も経済など社会のしくみを回していくひとつの部分となり得ます。

有用性に何でも還元して物事を考えるやりかたが批判されて久しいのはその通りですが、私たちの生活にはまだまだ有用性を基準にした評価やその意識が、モノ・人間の捉えかたに色濃く残っているように思います。
たとえば文化人類学者の磯野真穂は、自民党杉田氏のLGBTに関する発言で話題になった「生産性」という言葉を、身体と社会の関係から考えています。何もそのような考え方はポッと出の新しいものではないことを、人間をマシン/経済の1パーツの様にとらえるフレーズを挙げて気づかせてくれます。

私も例にもれず、氏の発言に対して強い嫌悪感を感じた一人である。しかし人間の身体を経済のパーツやマシンに見立てる類推は、杉田氏に限らずすでにこの社会にあふれていることにも目を向けておきたい。例を挙げよう。

スペックの高い男(女)
女(男)の賞味期限
男(女)の商品価値
身体のメンテナンス
コスパの悪い身体
10秒チャージ(ある健康食品のうたい文句)
アイドル〇〇の劣化

つまり、「生産性が高い状態にある身体・人間ほど社会にとって有用」とまではならないかもしれませんが、これらのフレーズはそれと同じ根っこを持つ発想のように感じます。

「教育」と能力に基づく評価

「教育」においては、何か価値が明確に対立しているというよりかは、併存状態にあるといった方が個人的にはしっくりきます。いまや国家に資するための教育がどこでも行われている訳ではなく、市民社会の側からですら「個性」を十全に発揮する教育手法がメディアにたくさん上がってきます。一方で、それぞれのものが持つ機能・有用性によって、あらゆるものが分化するような考え方はいまだにはたらいているでしょう。たとえばメリトクラシーと学歴社会です。

メリトクラシーは人間の属性(どういう身分出身かなど)ではなく、その人個人が持つ能力に基づいて、社会における立ち位置や処遇を決定する仕組みです。血筋による身分制の社会に変わる仕組みであり、現代社会もメリトクラシーで動いています。しかし、純粋にその人の能力を把握するのはとても難しく、しばしばその代わりに能力の証明になるものを使ってその人の立ち位置が決定されてきました。その1つが学歴です。

学校教育の役割の1つは人を選抜し、給料などの処遇の違いがある特定の社会的地位に振り分けることです。その評価基準はしばしば学力の多寡です。その評価の精度は置いておいて、一般に学力が高いと学歴も高くなります。学歴が高い人物は相対的に低い人物よりも社会で優秀と判断され、給料などの処遇に差が出ます。
学歴社会とは大まかにこのような仕組みです。人の能力を学歴の高低に置き換えて評価し配置する度合いが強い社会です。

学歴社会はこれまでさんざん批判されてきましたが、それは学歴がその人の能力を正確に測れていないという意味での批判で、そういう批判をされる方は、「もっと純粋にメリトクラティックな社会にしよう」という主張自体は肯定されるように思います。

能力によって人の配置を決める仕組み自体が残っているならば、それはまさに機能的分化社会であり、有用性を重視しているともいえないでしょうか。すでに生産性・有用性・能力に基づく評価が私たちに浸透しています。

自らの有用性・能力に抱える不安

能力、広く言えば有用性に基づく評価にさらされ続ける私たちは、自分の持つ能力に対して不安を抱えるのではないでしょうか。中村(2018)は近代社会において、自身の能力が低いのではないかという不安をくりかえし抱いてしまう状態を「〈能力不安〉」と名付けました。

思い通りに勉強や仕事が進まないとき、人は自分の能力に不安を抱きます。それ自体は特別なことではないのですが、情報化が進みに進んでいる現代では、他者の成功や業績が何処にいようが目に入ってくるようになりました。自分をブランド化しろ、という時のブランドは他人からの差異化であり、自分よりも目立った個を見るたびに、どうしても自分の能力(強み)をくりかえし問うてしまいます。学校の期末試験で優秀な成績でも、全国レベルの模試の結果が散々ならば不安になります。

このような社会では、学びの機会が学校以外にも開かれ、だんだんと学びの「中身」にまで目が向けられても、学ぶ内容が有用かどうかの線引きは、今度は個人が有用な学びを見抜いて選ぶ能力をもっているかどうかの線引きにも転化するのではないでしょうか。実際、能力がどんどん多様化していく現象を、教育社会学者の本田由紀は「ハイパー・メリトクラシー」と名付けています(本田 2005)。

有用性志向の社会では、〈能力不安〉がひとつの課題だと思います。不安を感じるタネは何処にでもまかれているように感じるのです。

人と社会とのかかわり

このような不安を抱えるとき、思いつく対処法の1つは
そもそも不安のタネに遭遇しないこと
です。そのためにフィルターバブルを自分で作るということです。これで不安に遭遇せずに済みます。自分以上に能力のある(ように見える)人と(メディア上でも何でも)会わなければ一次的にでも不安はなくなるはずです。

しかし、自分に都合の良い情報だけの世界に浸かりすぎるのも良いことではないでしょう。学びは自分が考えもしなかった発想に出会った時であり、見慣れた、都合の良い、安定した情報の中ではそのようなものに出会うことが少ないと思うからです。個人にとって都合の良い領域をつぶすのではなく、様々な人が交わる公的なスペースに学びの可能性を用意し、そこに人々の参加を促すことが必要でしょう。

これを実現していくには、「開かれた学び」をもう1段階具体的に考える必要があります。

「開かれた学び」

開かれた学びが達成されるには少なくとも2つの段階が必要です。
1つは、人々がその学びにアクセスできる機会があること。もう1つは、実際に人々がその学びに参加していること。
前者はMOOCなどオンラインコンテンツの普及で一定程度は達成されていると思いますが、後者の方には実際に学ぶかどうか個人の決断が絡んできます。ここに〈能力不安〉の問題が存在すると考えています。学びの場はある意味では〈能力不安〉を抱かせる場であり、参加にためらいが生じると考えられます。この第2段階において、いかに必要以上に〈能力不安〉を抱かせずに参加してもらうか。

最初に戻り、ここに「関係性」の概念が必要だと考えます。有用性などからは無縁の、個人を無条件に承認する場・時間です。学びの中身の有用さ・価値を問う場、異なる人々が学び合う場は、有用な学びの内容を見抜く能力の一切を肯定するような、個人間の関わりについての土台があってはじめて機能するのではないでしょうか。これは、批評と非難の違いにも通ずる考え方でしょう。

批評は、ここではあくまで学びの中身を問うためのものであり、学び合うためのツールです。〈能力不安〉の観点から学び・教育における公と私の行き来を捉えると、このようなことが言えるでしょう。

私たちにとってのShare Study

私個人にとってのShare Studyは、学びの中身をそこに集まる仲間に共有する時に、自己に不安を感じることのない関係性を感じることができる場であってほしい、そうしたいと考えています。学びのあり方そのものでなく、それを可能にする土台として、私たちのShare Studyらしさを形作る、あり得る1つの「らしさ」を提示出来ていればとても嬉しいです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。それでは!

【参考文献】
田中智志(2012)『教育臨床学―〈生きる〉を学ぶ―』高陵社書店.
中村高康(2018)『暴走する能力主義―教育と現代社会の病理』ちくま新書.
本田由紀(2005)『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』NTT出版.

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—あそび、ゆらぎ、むすぶ。—
Share Study β 大平 拓実
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