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「『気づき』のある暮らし」/《木の鼓動》

「あなたは生きていますか?」

そんなふうに問いかけられたら、あなたならどうやってそれを確かめますか?

自分は、日々ちゃんと生きているだろうか?
毎日を充実して過ごしているだろうか?
自分は、今ちゃんと生きていると言えるのだろうか?

 まじめなあなたなら、そんなふうに哲学的に考え始めてしまうかもしれません。ちょっと肩の力を抜いてみよう。
「あなたは生きていますか?」
生物学的に、「生きている」か、どうかをたずねられたら。あなたは、どうやって確かめますか?

 初夏の朝、日の出前に、散歩に出かけてみよう。

 朝の光を思う存分浴びるために、広々と開けた、田んぼ道を歩こう。
 田んぼの中にまっすぐに伸びる道。両側の緑の田んぼが強く輝き出す。振り返ると山の頂が後光のように輝いている。日の出だ。
 田んぼに無数のダイヤが輝いている。青々とまっすぐに伸びた稲の葉先に付いた朝露が朝日を反射している。小さな粒が何百倍にも光を増幅して輝いている。その水玉の数は何万、いや、何千万。その一粒一粒が山の端から射るように差しはじめた太陽の光を閉じ込め、爆発させている。
 私と太陽をつなぐ線に沿って光の玉の帯が伸び、その光の帯が、歩く私についてくる。それは一日の始まりを告げる神様の指が、光の鍵盤の上を滑るように稲の畝を波打って進む。私と光の帯が一列に並んで行進するように。
太陽が地上に、耳には聞こえぬ朝のシンフォニーを奏で、歩く私に踊るような楽しい気持ちを与えてくれる。
 歩きながら反対側の田んぼを見れば、太陽に励まされ力強く歩く私の影が、稲葉の先に輝く光の海を一定のリズムに乗って、滑っていく。その私の影の周りの水玉は、一際に輝いている。まるで私の影が、オーラを発しているように。
 山の上で霧の海に出来るブロッケンが、夏の朝の田んぼに出現している。

 朝露が降りた朝は、この光のドラマが楽しみで、散歩に出る前から気持ちがワクワクする。

 朝のシンフォニーが静かに止む頃、道をそれ、神社の境内へ。
 集落毎にある鎮守の杜。杜には必ず森がある。森に覆われた境内の草にも朝露が降り、木漏れ日が、所々で輝いている。
 社に向かい、二礼、そして二度柏手を打って、一礼。柏手の音の後、しんと静まりかえる神社で深々と頭を下げていると、なぜだか自然と感謝の気持ちがわいてくる。生かされていることへの感謝。

 顔を上げ、ふり返ると、太陽が私に降り注いでいる。生きている自分を感じる。私は、太陽に励まされ、元気に歩いてきた。
 汗が滲み、鼓動も少し早い。

 鼓動?

 今、自分の胸の中で、力強く脈を打つ心臓。
 私は、生きている。

 自分が生きていることを感じながら、神社の森を見上げてみる。
 朝日を受けて輝いている木々。青々とした葉を付け、成長を続ける木は、間違いなく生きている。立派な欅も、杉も、生きている。
 この木々も、私の腕では抱えきれないようなその大きな体内で、命が脈打っているのだろうか。

 私は、定期的にクリニックに通っている。やさしい主治医は、聴診器で私の体調を確かめる。
「はい、深呼吸を続けて・・・うん、大丈夫だね。」

 あなたは、聴診器で自分の鼓動を聞いたことはありますか?
 決して「ドキ・ドキ・・・」などとは聞こえない。
「グッグ、グッグ、グッグ・・」少しくぐもったような、それでいて力強い音が聞こえる。それが、あなたの鼓動だ。
 あなたが、今、生きている証拠の音だ。
 
 木も生きている。だったら、その生きている木の中からも、生きている証拠の音が聞こえるのだろうか?

 木に聴診器を当ててみよう。
 集音部がしっかりと密着するように、木の肌が少しふくらんでいるような場所を選んで、そっと、押し当ててみよう。
 そして、耳を澄ます・・・・

 「・・・ゴォー・・ゴゴ・・ゴォー・・・」

 これが木の中から聞こえる音なのか?
 集音部を木から離すと音は、すっと消える。
 もう一度、そっと聴診器を押し当ててみる。

 「・・ゴゴ、ゴ・・ゴォー・・・」

 木の中から、音がする!

 いつも同じ音がするわけではない。
 違う場所からは、違う音がする。
 違う木からは、違う音がする。

「・・・サー・・」

「・・ポコッ・・ポコ・・ポコポコッ・・・」

 土管の中を水が流れるような、音。
 何かがうなるような、音。
 水が詰まった水筒の中で空気が動くような、音。
 風が渡っていくような、音。

 木の中からは、いろいろな音が聞こえてくる。

 あなたの耳に届く、その音は、何の音だろうか?
 木が水を吸い上げる音?
 木が生きている証拠の音?

 木が水を最も吸い上げるのは、初夏の太陽が昇り始めてから南中に達する頃まで。太陽に温められ葉から水蒸気が蒸発する蒸散活動が活発な時だそうだ。そして、毛細管現象によって水が吸い上げられる速さは、一時間に50センチぐらい。
 残念ながら木が水を吸い上げる音は、動きがゆっくりすぎて人間の耳には聞こえないらしい。
 では、あの、あなたの耳に届いたのは、何の音?

 木の中で起こっていることを想像してみよう。
 そして、木全体を思い浮かべてみよう。
 木は空へ向かって枝を伸ばしている。太い枝、そして、その先の細い枝。枝には葉をたくさん付け、それが風を受けて、そよいでいる。木は大きな体全体で風を受け、ゆっくりとしなり、枝の間を風が抜けていく。
 地中も想像してみよう。空に向かって枝を伸ばすように、地中に根が伸び、横に、深く、広がっている。根は、しっかりと大地をつかんでいる。その大地の中やどこまでも続く地表で、様々なことが起こっている。

 あの音は・・・・
 空を渡る、風の音?
 地下を滔々と流れる、水の音?
 木が揺れ、軋む音?

 答えは、わからない。どれも正解かもしれないし、いろいろな音が混ざって聞こえているのかもしれない。

 答えがわからないというのは、なんとも、もやもやとしたものが残る。
「木が生きている証拠だ!」と言い切れたら、どんなにスッキリとすることだろう。

 ある日、こどもたちと、それぞれ別れて、聴診器を使って木の音に耳を澄ましていた時のこと。私の耳に、聞いたことのない音が聞こえてきた。最初は、小さくかすかに・・

「・・・ドン、・・ドン、・・ドン、・・」

 まるで心臓の鼓動のような、木の内側から叩くような音。
 それが、だんだん大きくなってくる!

「・・・ドン、ドン、ドンッ、ドンッ!・・」

 え!? 
 一体、この木は、どうなるんだ?
 そう思った瞬間、
「たくさん!(私のフィールドネーム)」背中から私を呼ぶ声。
 木の中から聞こえてきたのは、私に近づいて来た仲間の足音だったのだ。

 なんだ、足音だったのか。
 木に心臓なんか、あるわけないよな・・・
 
 落胆したその日のことが、ある日、私にとても素敵なメッセージとして蘇ることになった。

「(やさしく、おだやかで、平和な心持ち。それを保ち続けるために)月に一度、自分のためだけに自然の中へでかけなさい。それが唯一の方法です。」そうシェラネバダで教わってから、私は自宅から車で30分くらいのカヤの平というブナの森へ、時々、時間を作って出かけるようにしている。
 樹齢が何十年にもなるブナの巨木が林立する森は、私の大好きな場所。そこへ出かけるのは大概、日がかげり始める頃。観光客がいなくなり、大好きなブナの森を独り占めできるからだ。その時間になるとひとけはまずない。

 秋の夕方に出かけた時に、散策路の真ん中に、まだ湯気が立っているクマの糞をみつけた。すぐ近くのぬかるみには、ハッキリとした大きな足跡あった。

 クマが、すぐ近くに居る!
 今日は、クマに会えるかもしれない!
 そんなワクワクした気持ちは、すぐに心臓が飛び出そうな驚きに変わった。
 すぐ後ろの藪が「がさがさっ」と音を立てる。ふり返ると、藪の隙間にツキノワグマがこちらへ向かってくるのが見えた!

 私は、一目散に、全力で森の出口へと向かって走った!
 走りながら、「クマに、出会った!至近距離で!!」そう思った。
 走りながら、大笑いしそうなくらい、うれしかった。

 森から出て、管理小屋の知り合いから
「今は、クマの時間。」と、念を押された。
 ブナの森は、クマの森だった。

 そんな素敵な出逢いもしたブナの森を、凝りもせず、ある日もクマの時間に独り占めしながら(どこかにクマもいるけれど)悠々と歩いていた。森の王様にでもなった気分で。
 ブナの巨木を眺めながら・・・・

 ふと、「足音は、木の中に伝わっている・・・」ということを思いついた。聴診器から仲間の足音が聞こえたあの日のことを思い出したのだ。

 ブナの木々には、今、自分の足音が、伝わっている!
 ブナは、私が森へ入ってきたことを、さっきから知っている!

 そう気づいた私は、自然に帽子を取り、周りの木々に向かって深々とお辞儀をした。
「こんにちは。お邪魔しています・・・・。」
 私は、声に出してブナの木々を見回して、あいさつをした。

 そして、それまでには感じたことのない、周りの木々への親近感を覚えていた。ここに居るのは、自分だけじゃない。周りのブナの木、たくさんの木々と共に、今ここに居る。

 それは、とても温かく、素敵な心持ちだった。

 それから、まさに手当たり次第に、ブナの木たちとハグをした。木を抱きしめると、抱き返されるような、そんな感覚がした。
 自分の腕の長さとピッタリの木では、お互いに力強く抱き合うように。抱えきれない巨木には、まるで優しく抱っこされるように。
 木肌に頬をぎゅっとくっつけると、冷たいキスを返してくれる。
 それからは、ウキウキと、まるで宴席でお酌でもして回るような気分で、森を歩き回りながら、次々とブナの木肌を撫でていく・・・
 それは、なんとも言えない幸せで愉快な時間だった。

 私の足音は、木の中に伝わっている。
 私が木の近くへやってきたことは、木はわかっている。

 それ以来、私はどこにいても、木の近くにいると、ふと、お互いの存在をわかりあっている感覚がする。街路樹にも歩きながら、心の中で「こんにちは。」と言っている。それは、幸せで、素敵なことだ。

 こどもたちにも、こう言うことにしている。
「木はね、みんなの足音を聞いているんだよ。君が近くに来たことをわかっているんだ。だから時々、木に『こんにちは』って、あいさつしたって、いいんじゃないかな。」

 私たちは、自然の言葉を聞くことができるだろうか?

 自然から音として何かを聞き取ったとしても、それを言葉として理解することは、まだ、出来ないかもしれない。
 しかし、自然の声を聞こうとして、耳を傾けることはできる。自然の声に耳を澄ますことはできる。木は、自然は、音として私たちの耳へ何かを伝えている。今、起こっていることを音として。いや、それは今のことだけでなく、過去の記憶かもしれないし、未来へ向けてのメッセージかもしれない。深い親愛の情を込めた言葉かもしれない。いや、ただの気軽な挨拶かもしれない。「こんにちは」と。

 木は、生きているの?
 生きているから音がするの?

 私は、そんな問いに、黙って頷くことにしている。

 そう感じたのなら、そういうメッセージが届いたのだ。私は、正解を探すことより、木に聴診器を当て、耳を澄ましている時間が、とても素敵で大切だと思えるのだ。

 木は、何を教えてくれているのか。
 あなたも木の音を聞いてみるといい。
 聴診器を使わなくても、直接、耳を木に押し当ててみるだけでいい。

 耳を澄ましている時間こそが、素敵なことなのだから。

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