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「『気づき』のある暮らし」/《目かくしイモ虫》

 我が家にはスロープになっている芝の庭がある。私は、夜、そこに寝転んで星空を見上げるのが好きだ。
 それは大概、飲んで帰った時だ。酔っ払っていると夏でも蚊が気にならなかったり、星空が澄む秋も寒さが気にならないからだ。「気持ちがいいぞ」と誘っても、家族は、「やれやれ、」と思っている。

 星空を見上げながら、いつも「自分は地球に寝転んでいる」と思うようにしている。
 背中にあるのは地球。
 そう思うと、星空、宇宙に浮かんでいる地球がゆっくりと回っているのが感じられる。(気がする)
 地球に引力があって良かったな、とつくづく思う。もし地球に引力がなかったら、私は星空の中へ落ちていくことになる。
 そんな場面も想像してみる。星空の中へ落ちていく自分。地球から離れていく自分。宇宙に独りぼっちになって、もう二度と地球へ戻れない。
 なんという孤独だろう。

 地球の上にいること、地球に生きている奇跡が、星空を眺めながらうれしいことに思えてくる。そして、背中の地球が愛おしくなってくる。私を載せてくれている地球の愛を感じてくる。
 私は、星音痴で、星座もちょっとしかわからない。だからだろうか、星空を眺めながら地球のことばかりを考えてしまう。たくさんの星の中で地球に生まれた奇跡に感謝する。

 そのまま地球の愛に抱かれて寝てしまい、庭先で息子に救出されたこともある。やれやれ。

 私は、自然の中にいる時も、ビルの中にいる時も、地球や自然に想いを馳せると何とも言えないおだやかな気持ちになれる。それは、自分も自然とつながっている、もしくは自然の一部である、とでも言うか、なかなか言葉では著せない安心感を伴う感覚だ。
 そしてそれは、自然を心と体で直接体験した後の心持ちに似ている。
 自然を心の中に意識すると、自然を体験した時の心が蘇るスイッチが入る感じだろうか。心と体で自然を直接体験する機会を繰り返すことで心の再現性が高くなっている、とでも言えるのかもしれない。

 体で直接自然を体験するというのは、文字通り、目や耳や手、体、鼻を使って直接、自然に接すること。
 さて、では心で直接自然を体験するというのは、どういうことだろう。
 心で直接、自然を感じるということは、知識や経験値に左右されずに感じるということだ。先入観というフィルターを通さずに、ダイレクトに自然を感じる体験だ。
 それには、とかく視覚が邪魔をしてしまう。

 例えば初対面の人に会ったとき、あなたは話しをする前から相手を見た目で判断してしまわないだろうか。そして、自分の経験からこれからの対面の傾向と対策を立てている。その人の意外な面を知って見直すのは、かなり時間が経ってから。初対面でパーソナルな面まで踏み込んで話ができることは少ない。多くの場合、最初に見た時の印象のまま別れてしまうことが多いかもしれない。

 人は、自然と対する時も同じ事をしてしまう。例えば、チューリップと認識した時点で、心の何かがストップしてしまう。「赤いチューリップ」。そこからあなたの心は一歩も前へ進んで行かない。
 あなたもチューリップの花の香りを嗅いだことはあるだろう。しかし、今、目の前のチューリップは、それと同じ香りなのだろうか。チューリップの花の香りは、そもそもどんなふうだったのかもあやふやなくせに、確かめることもしない。あなたは、チューリップの葉や茎に触れたことはあるだろうか、花びらの表面に触れたことはあるだろうか。花の香りを嗅いだことはあるだろうか。

 私たちは、情報収集のほとんどを視覚に頼っている。しかし、この視覚というものは、「見たいもの」は見えるが、そうでないものは、ほとんど見落としてしまう。実にいい加減な感覚だと言える。先入観は、幼い子どもに、そのわずかな人生経験によって培った先入観と結託して、森を一瞥して、「何もない」、などと言わせてしまう。多くの大人も、これとあまり変わらない。

 視覚を一旦休ませて、自然を体験してみよう。

 先入観を持たずに心で直接自然を体験するために、視覚を使わずに自然を探検すると、心の動きにストップがかからずに「素直」に体験することができる。「誰かに付けられた名前」や「体験したこともないのに知っている概念」から自由になって自然に触れてみよう。視覚を休ませて他の感覚で自然に触れた時、今まで気づくことがなかった自然の姿を心で感じることができる。あなたの「知識や経験」はその時、はじめてその体験に豊かな陰影をプラスしてくれるだろう。

 目かくしをして自然の中を探検してみよう。

 目かくしをしたらどんな感じだろう。
今、あなたは屋外にいて、目かくしをする。見えないのだから目かくしの下で目を閉じる。不思議なことに目を閉じると他の感覚にスイッチが入る。

 耳を澄ます。
 さっきまで耳に届いていたはずなのに聞こえていなかった音が聞こえ始めるだろう。
 小鳥たちがたくさんいる。どこで啼いているのかがわかる。遠くで啼いている小さなさえずりまで聞こえる。
 頭の上の木の葉が風にそよぐ音が聞こえる。高いところを風が渡っている。

 息を吸ってみよう。どんな香りがするだろうか。
 森の香りって、どんなふう?

 頬に風を感じるだろう。
 もし、風を感じなかったら、手を広げて顔の横にかざしてみよう。指の間を動く空気を感じるはずだ。風と呼べないような空気の動きがわかる。空気はいつも動いている。
 そのまま、掌を頭の上へかざしてみよう。そして、掌で太陽を探してみよう。掌をあらゆる方向へ向けてみよう。掌が温かく感じるところに太陽がある。
 そのまま、掌を足下の地面へつけてみよう。足下はどんなだろう。もし、あなたが森の中にいたとしたら、地面を押してみよう。森の大地は柔らかいはずだ。手に触れるものがあったら、触ってみよう。それを鼻へ持っていって香りを嗅いでみよう。地面の中へ指を差し込んでみよう。大地は湿っているだろうか、乾いているだろうか。そして、その指先を鼻へ持って行ってみよう。それが生きている土の香りだ。

 さあ目かくしをしたまま森の探検に出かけよう。数人で一列になり、前の人の肩に両手を載せて、一匹のイモ虫になる。先頭は目かくしをしていない自然案内人が勤める。自然案内人のリードに任せて、探検に出発しよう。

 足の裏の神経も敏感になろう。歩いている地面の様子が足の裏から伝わってくる。目で見て歩いているときには感じない傾斜や凹凸を感じるはずだ。

 案内人が勧める通りに、触ったり、音を聞いたり、匂いを嗅いだり、味を確かめてみよう。

 時には頭を屈めて藪を抜け、抱えきれない木を抱きしめ、鼻をつく懐かしい香りを嗅ぎ、ざらざらやべたべたをさわり、頭上を渡る風の音で森の高さを知り、思う存分、心で自然を探検するといい。

 木を抱きしめてみる。抱きしめている方が抱っこされている気がする。びくともしない存在感。ゴツゴツしていて、柔らかい。目かくしをしたまま見上げてみる。どんな枝振りか想像してみる。そよぐ葉の音が大きく枝を広げた姿を教えている。

 太い木と木の間の不思議な森の門をくぐり抜けたり、トトロの森の藪のトンネルを抜けたり、地面を這う根っこをたどって大きな木に辿り着いたり、葉っぱの匂いを嗅いだり・・・・

 たっぷりと探検を楽しんだら、静かに腰を下ろし、出来るならそのまま大地に寝転び、自分が大冒険してきた森を心の中で思い出してみよう。

 そして、その森の中に、自分がいることを感じてみよう。

 今、森に寝転がっているあなたの背中にあるのは地球だ。どこまでも続くその大地に自然が広がっている。そこにあなたが香りを嗅いだ植物が茂り、あなたが聞いた小鳥たちが遊んでいる。そして、あなたも一緒にいる。その全てを地球は載せて回っている。

 あなたは、ゆったりとした気持ちになる。それは地球が回りつくり出す時間、一日で一回転して24時間だが、時計が刻む時間とはどこか違っている森の時間。自然の営みという時があなたの中を流れ始めている。

 あなたの上に空が広がっている。その空も地球とともにどこまでもつながっている。

 ゆっくりと目かくしをとってみよう。そして、静かに目を開けよう。
 少しまぶしいが、美しい空が広がっている。背中には地球がある。

 目かくしをはずしても、ゆったりとした時間が流れている。心地よい。
 森の空を眺めながら静かに過ごす。

 ゆっくりと上体を起こそう。

 周りに森が広がっている。
 そして、一緒に森を探検した仲間もいる。
 みんな、ゆったりとして、言葉が出ない。さっきまで一緒に驚きの声を上げていたのに。

「今の気分はどうですか?」
と問いかけられてもなんと答えて良いのか言葉が浮かばない。
「心地よいですか?」
微笑んで聞くと、皆、微笑みを返す。

 なんとも言えないおだやかで平和な気分。森に仲間達と一緒に静かにいるのが、とてもうれしい。こみ上げてくる想い。

 きっとあなたは、胸にあふれる想いを誰かにもわけてあげたいと思うはずだ。その気持ちを誰かに伝えることができたら、きっとさらに素敵だろうと思うはずだ。そして、周囲の森が、今までと違って見えるようになる。見えているものは少しも違っていないのに、心が感じることが違っていることに気づくだろう。

 それが、自然とともにいることの楽しさや豊かさなのだ。

 心で深く自然を体験したあなたは、自然の本質を感じる心を持つようになる。そして、あなたの目は、その心とつながっている。
 それもひとつの先入観ではあるが、あなたと自然を結ぶ妨げにはならない。むしろ自然とあなたとのつながりを手助けしてくれるだろう。
 心で深く自然を体験した心は、正しいチャネルにつながっていると言ったら良いだろうか。
 たとえて言うなら、花が美しいからあなたが美しいと思うのではなく。あなたが美しいと思うから、美しい花がそこにあるのである。花を見ても何も感じないまま立ち去る人もいる。花に気づきもしない人もいる。
 あなたの心は、花を見たら、きっと美しいと感じるだろう。そして、その美しさの秘密をもっと知りたいと思うだろう。自分を惹きつける自然の本当の姿を確かめたいと思うだろう。あなたは、その花に近づき、その香りを確かめるだろう。

 自然案内人に導かれて自然体験をした私は、ある時、花によく目が行くようになった自分に気づいた。そんな自分を素直に、いいなと思った。
 自然体験は、人を素直にするのかもしれない。それ以前の自分なら、そういう自分を斜に構えて見ていたかもしれない。しかし、その時の私は、素直に自分の変化を認め、そういう自分を素敵だと思った。そして、そういう自分へ変わりたいと思った。
 自分の変化に気づいた私は、それから自分の心にせっせと水を遣り始めた。心と体で自然を体験することを繰り返した。そして、「きれいだ」「美しい」「素敵だ」という言葉を素直に口にするようにした。
 良き芽生えは、小さくて、すぐに枯れてしまう。だからずっと、そして今でも大切に水を遣り、育て続けている。

 心への水遣りは、それ自体が、素敵で楽しい体験だ。あなたの喜ぶ心に素直に従えば良いのだ。

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