Dr.本田徹のひとりごと(54)2014.11.27
日本の戦後プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)とUHC(住民皆保険医療)への道 ―若月俊一と深沢晟雄を例に―
日本の戦後プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)とUHC(住民皆保険医療)への道 ―若月俊一と深沢晟雄を例に―
下記に掲載するのは、Oxfam International のオンライン上のオピニオンページ 'Global Health Check'の2014年11月11日号に掲載された、Universal Health Coverage(住民皆保険医療)に関する本田の寄稿文(英文テキスト)の日本語訳です。
きっかけとなったのは、外務省主催で、アフリカ日本協議会(AJF)の稲場雅紀さんらが運営を任されているNGO研究会の中で、今年「UHCとNGO」と題しての連続セミナーを開いた際、8月5日の第3回で本田が講師としてお招きいただいたことでした。私は主として、戦後日本のPHC経験が、現在のグローバルなUHCに対して持つ意味について、お話をしました。私が意識していたのは、2011年8月30日号でLancet誌が、'Japan: Universal Health Care at 50 Years'と題して、1961年の日本の国民健康保険制度発足50周年を記念する特集を組んだことでした。大変内容の濃い、良い企画でしたし、これを編むために献身された、日本の研究者たちの努力を多としつつ、どちらかと言うと、戦後日本の、「上からの」医療保険制度や公衆衛生政策の優位性を説くあまり、「草の根からの」PHCの視点を欠いているように、私には思えたのでした。このセミナーに参加されたOxfam Japanの山田太雲さんが、当日の講演の内容をOxfamのオピニオンページに寄稿しないかと勧めてくださったのです。私にとってはたいへん貴重な機会となりました。心より山田さんや稲場さんに感謝申し上げます。拙い議論ではありますが、皆さまにとってご参考になれば幸いです。
なお、Lancet記事を含め、'Global Health Check'への掲載ページについては、下記URLからご覧いただけます。
http://www.globalhealthcheck.org/?p=1705
健康における公正: 日本の第二次世界大戦後の国民皆保険に向けての歩み - 草の根の視点から
2011年9月1日、ランセット誌は日本のUniversal Health Coverage(UHC)50周年を特集した。1961年に日本は、公式に国民皆保険制度を発足させたのだった。この制度は主として、被用者保険を中心とする社会保険すなわち「社保」、地域・自治体を中心とする国民健康保険すなわち「国保」が、二つの大きな柱となってきた。
いまや日本は、WHO(世界保健機構)からも、OECD(経済協力開発機構)からも、比較的低いコストで、世界でも秀でた、住民の長寿を達成した国の一つとして、高い評価を受けている。いかにしてこのことが実現できたのか? 一つの要因は、保健医療サービスにおける普遍性と近接性を保障した日本の「平和憲法」の存在である。憲法25条はこう述べる、
ランセットの特集記事は、ことにも公共政策と健康保険制度面に対して、公正な分析を行い、日本の経験から学びえる教訓を提示している。しかし、ランセットの記事から抜けている大事な要素が一つある。プライマリ・ヘルス・ケア(PHC)のアプローチに関することだ。この分野の日本の先駆者たちは、健康保険制度の失敗と不備を埋めるために、地域においてPHCを用いて奮闘したのだった。
このボトムアップ型のアプローチには、ランセットの記事は、ほとんど言及していないが、実際はUHC実現のために、非常に重要であり、役立つものだった。戦争で壊滅的な打撃を受けた日本の社会にとって、とくに医師が慢性的に枯渇していた農村では、PHCは決定的に重要だった。
私はPHCにとってのロールモデルとなってくれた二人の人物について描いておく。
若月俊一医師と深沢晟雄(まさお)沢内村村長: 戦後の日本における地域保健とUHC建設のパイオニア
若月医師は、1945年3月、つまり日本帝国軍隊が連合国軍に降伏するほんの数か月前に、当時は長野県の僻地だった、佐久のさびれた病院に派遣された。彼自身は卓越した外科医だったが、赴任初期から、この山間地域でのヘルス・プロモーションや予防活動に深く関わった。1940年代後半から、アウトリーチの保健チームを組織し、農村保健ボランティアを育成し、健診活動を開始した。しかも、農民の日常の健康問題をテーマにしたロール・プレイ(保健教育劇)を住民に見せることで、彼らの健康意識を高める努力をした。1980年代までに、若月のチームと住民の協力により、長野県では、脳卒中と結核という当時死因の大きな部分を占めていた2つの病気を減らすことができ、それに伴って住民全体の医療コストの削減を見た。今日にいたるまで、長野県は、47都道府県の中でも、男女とも長寿日本一を誇っている。
1957年、岩手県沢内村の深沢晟雄は選挙で村長に当選した。沢内村は日本の北にあり冬期間は雪に埋もれ、道路が通れなくなる。しかも実質的に無医村だった。彼は村長になってから、当時最新式のブルドーザーを村で購入し、劇的な除雪活動を行い、村人が病院や学校や商店への通院・通学・買い物に、冬季でも自由に往来できるようにした。彼はまた、無料での妊産婦健診や乳幼児健診を開始した。1960年代初めには、彼は1歳未満児と60歳以上の高齢者の医療費無料化に踏み切る。彼の主導による、こうした村独自の医療政策は、当時の厚生省や県から、国民健康保険法に違反するものとして、厳しく批判された。しかし、彼は屈せずにこう言い放った。「私が乳児やお年寄りのためにしたことが、国民健康保険法の違反になることは承知していますが、私は憲法25条に従って行動しているだけなのです。」
5年のうちに、村人も政治家も、沢内村の乳児死亡率が、千対69.6からゼロに下がったことを知り、驚愕した! しかも、この素晴らしい成果は、同じ岩手県内の沢内村周辺の自治体に比べ、より低い医療費で達成されたのだった。最終的には、国も深沢に倣(なら)い、乳児医療費・高齢者医療費無料化などの施策を導入していくことになる。佐久における若月同様、深沢もまたヘルス・プロモーションと疾病予防の活動の強化に熱心に取り組んだ。彼は村の保健委員会を立ち上げ、村民の活発な参加を促した。彼にとってUHCとは、単に医療費を無料化することではなく、地域の中に、持続可能で参加型の仕組みを作っておくことが重要だったのだ。
英国の医師にして公衆衛生学者のJulian Tudor Hartは、ランセットに発表された彼の有名な論文(1971)「さかさま医療ケアの法則」(The Inverse Care Law)で以下のように喝破した。
この法則は私たちに、保健サービスの確保を困難にする基本的な要因について、私たちに改めて教えてくれる。市場経済への楽観的な依存に対しては、地域レベルであれ、国レベルであれ、グローバルなレベルであれ、UHCの確立を目指すために、私たちは明確に反対すべきであるということだ。
グローバル社会の一員として、私たち日本人は、開発途上国の人びとの健康改善のためにもっと貢献すべきだ。私たちの過去のUHCに関する経験は、他の国々や国連機関にとって以下二つの点で重要な教訓を提供する。一つには、国の医療制度を形成していく上で、政府の果たす役割が非常に大きいこと。二つには、しかし、草の根レベルでのイニシアティヴ(自発的行動)が、UHCの質を改善する上で決定的な違いをもたらすということだ。
2014年11月11日
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